世の中で成功している人「3つの共通点」-松田恵示(「遊び学」研究者)-

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大学入試の合否といえば、センター試験に代表される学科試験で決まるのが一般的。 しかし新しい流れとして、学校が求める人材像(アドミッション・ポリシー)に基づいた面接や小論文などの手法で、受験生の個性や能力を評価する「AO(アドミッションズオフィス)入試」を導入する大学が増えている。

平成28年度からは、あの東京大学までもAO入試を導入。
なぜいま、学力だけでは計れない能力を持つ人材に注目が集まっているのか。

社会学の立場から“遊びの文化”を研究する「遊び学」研究者で、東京学芸大学教授の松田恵示先生に、いま大学や社会が求める人材にどのような変化が起きているのか聞いてみた。

 

世の中で成功している人には
「3つの共通点」がある

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————いま、全国各地の大学でAO入試の導入が進んでいます。なぜいま、こういう流れが起きてきているのでしょうか?

松田 今まで入試で求められてきた「学力」ですが、まだまだこれは“頭に入れた知識を試験のときに再現できる能力”というイメージですよね。 英語のテストでいうと、当然ながら100のイディオムを知っている生徒より、200知っている生徒のほうの評価が高くなる。

しかし、そういう「覚えて再現する力」は社会に出た後、あまり生きて働かないのではないか、という認識が大学入試のあり方を考える人たちには共通意識としてあると思います。 というのも近年、OECD(経済協力開発機構)が“教育において伸ばすべき能力とはどういうものなのか”という観点で「キー・コンピテンシー(主要な能力)」を発表したり、経済産業省が“社会で必要とされる能力”を調査して「社会人基礎力」というのを明らかにしたりしています。

かんたんに言うと「世の中で成功している人の共通点はなんだろう?」というのを調べたわけですが、それはだいたい共通した要素から説明されることが多いのです。

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松田 例えば、OECDが提唱する「キー・コンピテンシー」を挙げてみます。

一つは、学力テストのように知識を覚えるだけでなく「その場に応じて覚えている知識を活用する力」。

二つめは、「人と関係を作っていく力」。 これには最近の仕事の傾向として、ひとりで黙々とやる仕事は少なくなっており、知らない人と目標を共有し、お互いのよさを活かしながらプロジェクトとしてまとめていくモデルが一般的になっている、という影響もあると思います。

そして最後に「自ら動く力」。言われたからやるのではなく、自分で主体的な意志を持って継続し続ける能力です。

このような、実際に社会に出たときにどんな能力が必要なのか、という観点で検討されるようになってきたことが、大学の入口である入試と出口である卒業、就職のところまでの評価基準の変化につながってきたのだと考えられます。

「多様化した人を取らなければいけない」
という認識自体が均一化している

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————学科試験には「点数」というはっきりとした評価のモノサシがあります。しかし「個性」や「資質」を基準とするAO入試は評価するのが難しい印象を受けるのですが。

松田 率直に言って、まだAO入試の導入が成功している、とまでは言い切れないと思いますね。 理念はいいと思うのですが、まだこの動きは歴史が浅いですから採用する大学の側にも課題がたくさん残されている。

この試みは、「入試の観点を多様化させて生徒たちの資質にある尖った部分を、アドミッションポリシーに照らして評価し取り上げたい、それには学力テストで均一に見ているうちは分からないだろう」、という目線があったわけです。 個性と個性が練り合わされて新しい何かを生み出していく、そういう未来を求めていると。 つまり原点にあるのは、人と同じ資質を評価するのではなく、違う資質を評価する、という考え方ですよね。

しかし、違う資質を評価する、というあり方について僕ら大学教員は疎いところがありまして、どうしても「好ましい」と考える学生像が似てくる傾向にある。 学科テストで入った生徒と価値観のぶつかり合いが起るくらいの学生がAO入試で輩出できたらある意味で成功とも言えますが、今はまだなじんでしまう印象を受けています。

————学生の資質だけでなく、採用する側の意識改革も必要になるわけですね。

松田 「多様化した人を取らなければいけない」という意識が、大学の間で均質化している状況、と言えるかもしれません(笑)。 近年取り組み始められてはいるのですが、今までどおりの学科試験と織り交ぜて判断する、とか独自の方法を選ぶ大学があってももっといいはずなんですが、一斉に右向け右になりがちなところがこの問題の難しさと言えるのではないでしょうか。

もちろん大学側も努力していないわけではなく、数値に表れない「資質」を測る技法があるのではないか、と様々な研究が各大学で行われています。 最近では大学同士で情報を交換して、先進的な動きをできるだけ吸収しようという横のつながりも生まれてきました。

人の質を評価しようとしているわけですから、ある程度の経験値が必要になる部分は否めませんので、今の時期の混乱は「仕方がないこと」、といった側面からの理解も必要なのではないでしょうか。

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————社会で求められている人材の変化と、採用する大学との間で共有している未来像や問題点が見えてきたような気がします。

松田 ただ「状況を判断して、他人といろいろ練り合わせてやっていく」タイプの仕事は、世の中の需要のうちどれくらいの割合なのか、と考えてみると決して多くはない、という考え方もありますよね。

ジグムント・バウマンという社会学者がおりまして、彼の研究対象のひとつであるアメリカのペリカンベイ刑務所には、普通の刑務所で見られるような時間割とか、厳密で計画的な労働などがないんですね。 施設も天井がガラス張りで、そこの唯一のルールは何かというと、「とにかくいざこざを起さず過ごすこと」なんです。

これを逆説的に読み解くと、社会の多くで求められている行動様式がそれ、ということとも言えます。考えて練り合わせて創造的に動くことができる仕事に対して、いろいろな人がただのパーツになって問題なく入れ替わり立ち替わりできる、非正規の仕事も社会には確実に増えている。でもいまのAO入試は前者の仕事だけ見ている状態、とも言える。

そう考えると、そもそもそのように二極化してしまうこと自体をなんらかの形でつなぎあわせるような動きも必要になってくるし、みんながやりがいのある仕事に就ける方向性も探らなければならない。 どの大学もAO入試、となる必要もないし、そこにある種のズレと「空白」が生まれているのも感じています。

若者は
「情報の取捨選択」は長けているが
「状況の判断」は苦手

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————大学側が入試改革に取り組んでいる背景には、やはり学生の質を高めたいというニーズもあるのでしょうか?

松田 最近はグローバル社会ですから、大学もコンペティションなど世界的な評価を意識する機会も増えてきています。 優秀な人材を採らないと太刀打ちできないところはあるでしょうし、一方で産業界に人材を供給する場でもありますから、人の質の低下が共通認識として言われているのは確かです。

最近の学生の傾向については、あくまで個人的な実感ですが、情報の取捨選択は早いんですが、自分で状況を判断して考えて動く学生が少なくなった、と感じますね。

先日、うちの大学で推薦入試の面接があったんですよ。 いまの受験生は昔と比べても本当によく準備していて、大学の志望理由を聞いても「貴学を志望した理由は!」なんて、「絶対ふだんそんなしゃべり方してないよね」みたいな丁寧な言葉使いでね(笑)。 もちろん、そうした努力は大切なことだし、高校の先生方の指導力には、ほんとうに頭が下がる思いです。

ただ、その準備というのが「情報的」というか、10個くらい回答の引き出しを用意して、こちら側が質問をするとそのキーワードを捉えて、ボタンを押したら出てくるような回答を話すんです。
その場で考えなければいけない質問や、彼らの話した言葉を拾って、その情報を広げていこうとしたとたんに言葉が出なくなる。

それって、いまの社会は自分で考える機会が少なくなっている影響もあるのか、と思っていまして。 僕の時代は瓶のフタが堅くて開かなくなったら、身近な人に聞いたり、自分で叩いたりして工夫する必要がありましたけど、いまはそんなことをしなくても「ググれば」早いし一番合理的な方法が出てきますからね(笑)。

————学生たちが自分で考えたり、自発的に動いたりする力の低下には、情報化社会の弊害もある、と。

松田 ICTツールが普及したことにより、分からないことはすぐ検索する習慣がつきました。 加えて、遠く離れた福岡でいま何が起っているか、なんてことまでSNSで具体的に情報が手に入るでしょう。 何もかもがはっきり分かると、なんとなく知った気になりますから、それ以上の興味を失ってしまう側面もあるかもしれません。

しかし、社会で求められている人材は「その場の状況を判断し考え、自発的に問題を解決していける人」でしょう。 言い切っていいか分からないですが、一般的な傾向は正反対じゃないか、と思えることもありますよ。

勉強は本来
役に立つからやる、ではなかった

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————知っている世界から、知らない世界に一歩踏み出す。その資質を伸ばすためには何が必要だと考えますか。

松田 「学ぶこと」=「面白い」という原理で自分の前に出てくるかどうか、が大きいと思うんです。

やらなければいけないのでやる勉強、の代表が受験勉強だとすれば、東大に受かっているような学生のなかには「東大に受からなければいけないから勉強する」という枠組みを超えて、パズル遊びをやってるようなイメージで問題を解いていく感覚の子も少なくないんですね。 つまり合格という結果が導かれるから勉強するのではなく、いつの間にか勉強自体が面白くなっている、と。

どなたかが本で書かれていたことだったと思うんですけど、カメムシの研究をしている先生がいらっしゃって、学術名として自分の名前がついたカメムシが一匹いるのが、その方のご自慢なそうなんですけれどもね(笑)。 カメムシの種の違いというのは、尾っぽの角度によるらしいのですが、その先生はその一匹を探し当てるために何十年も、世界各国に行ってカメムシの尾っぽの角度を測り続けたらしいです。この系の友人が大学には本当に多いんです(笑)。

それがなんの役に立つか分かりませんけど、でもそれって、絶対に「面白い」と感じられる、それが学ぶことの基本です。 今はまだ分からないだけで、その尾っぽの変化が生物進化の何かにつながって、それがまた医学の何かとして社会に貢献するかもしれません。

勉強が目的を叶えるための手段であるうちは、その枠の中から出るのは難しいのですが、役に立たないかもしれないけど面白いからやる、というところで学ぶと、自分で考え挑戦する行為へと自然につながっていく。 大学とは本来そういう場を提供する場所だったはずなんですよね。

————役に立つ、立たないに囚われず純粋に学ぶことを突き詰める場。大学のそういう役割が失われてきている側面がある、と。

松田 大学の持っているそういう本質は、このAO入試が見直されている世の中の流れから見ると、むしろもっと見直されていい文脈ではないか、と思うのですが、なぜかそれが逆になっていて。
「もっと役に立つ人を世の中に輩出するため」という目的ありきのAO入試になっている。そのギャップは気になっています。

これからの時代は
「考える力」がカギになる

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————それでは、松田先生が考えるAO入試でこそ輝く、これからの時代に強い人材とはどんな学生だと思いますか。

松田 やはり「考える力」がカギになると思いますね。
分からないものに対して向き合うひとつの知恵であり、乗越えるコツでもありますから、そこを伸ばすというのはAO入試のいかんを問わず教育にとって必要なことだと考えています。

考えるというのは、自分で組み立てる能力のことですし、自分で何かを組み立てるには、「あの人チラッと時計見たけど、急いでるのかな」とか周囲の状況や気持ちをキャッチする感受性や対外的な感度がないといけません。また、そもそもそうしたプロセスを、ある意味粘り強く我慢して受け入れることができること。

もうひとつは、知らないことに向かっていくエネルギー。 学生たちは就職活動のとき、自分について長所はなんだ、個性はなんだとものすごく考えて準備します。

でも個性なんていうのは自分で分かるものだけではなく、まだ知らない個性というのもあるんですよ。 「とある人と出会ったことで馬が大好きになり、今はすごく乗馬にハマっている」という自分は数年前からすると想像できなかった、ということもあり得ます。

分からないところにもまだ見ぬ何かがある、という感覚は、世の中の情報を集めて処理だけをしていると理解しにくい点でもある。 この「『感じて』『変える』力=考える力」が求められているのでは、と僕は理解していますね。

社会的な “グレーゾーン”の喪失が
チャレンジしない子どもを作っている

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松田 ただ、子どもたちが自分で考えて自発的に挑戦するなんてことは、いわゆる“グレーゾーン”がないと恐くてできないはずなんですよ。 というのも先にも述べましたが、ICT社会で何もかもはっきり目に見えるようになると、人は放っておけなくなる。 つまり社会全体の寛容性がなくなって、グレーゾーンが喪失してきている世の中、とも言えると思うんですよね。

例えば、教員養成の大学と小学校現場をスカイプでつなぐなど、タブレットを用いたリアルタイムの授業をしようという試みを計画しても、これがなかなか簡単ではないんです。学校側の了解だけでなく、ICTの利用には教育委員会の了解も必要です。

ところが、セキュリティの問題など、ほんとうに考えられるだけの備えを完全に用意できないと了解は得られません。情報の漏えいや、様々な問題がもし起きてしまえば、教育委員会や学校に対しての非難が「凄まじい」からです(笑)。 もちろん問題が起こってはならないんですけど、前向きな取り組みの中での失敗なら、「次はしっかりね」と笑って流すゆとり、グレーな部分がどこかにあってもいいはずじゃないか、と思うところもあって。

全くミスを許さない社会と、ミスばかり起こる社会とはどちらがいいか、っていわれると、もちろん積極的に「ミスばかり起こる社会」とは言えません。けれども、その両者には「間」がかなりあって、二択というよりは程度の問題じゃないかと。そういう「複眼的な思考」がほんとうに失くなっている気がするんです。起きた問題の質ということもあるんだけど、これではしかし、新しいことには取り組めないですよね。

子どもたちだけを教育で変化させるのではなく、社会全体がもっと寛容になって、失敗や挑戦を受け入れる幅のある世の中をみんなで目指していく。 そんな姿が実現すればいいなあ、と思い描いていますね。

コンテンツ提供元:QREATOR AGENT

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。