【アスリートの心の旅】元サッカー日本代表・戸田和幸「向き合い続けたのは、 面倒くさい自分」(後編)

心が強くなければ、戦えない。でも、強い心を手にするのは、決して簡単じゃない。トップアスリートはどのようにして“強い心”を手にし、それを発揮してきたのか。「心の旅」をテーマとするインタビューで、彼らの内側に宿る特大のエネルギーに迫る。元サッカー日本代表、戸田和幸の後編。

戸田 和幸

1977年生まれ。桐蔭学園高を卒業後、清水エスパルスに加入。2002年日韓ワールドカップでは不動の守備的MFとしてベスト16進出に貢献。その後は国内の複数クラブ他、イングランドの名門トッテナム、オランダのADOデンハーグなど海外でもプレー。2013年限りで現役を退き、現在はサッカー解説者・指導者として活動している。

「劣等感しかなかった」と振り返る現役時代、それでも戸田は、時に分不相応に感じるトップレベルの世界に死にもの狂いでしがみつき、結果を残し、評価を勝ち取って日本代表にまで上り詰めた。2002年の日韓ワールドカップ出場は、キャリアのピークと言えるかもしれない。しかしその後に待っていたのは、サッカーに対する執着心がもたらす「面倒くさい自分」との葛藤だった。

今、あの頃に行き場を失った思いは、「解説者」という次なるフィールドで存分に解き放たれ、セカンドキャリアは“第1段階”の最終局面を迎えつつある。キーワードは「自分=○○」。彼の頭の中は、すっきりと整理されている。

手にしたスタンダードと
現実のギャップ

――あの……すごく失礼かもしれませんが、現役時代の戸田さんは「異端児」という見られ方をしていた気もします。

戸田 うん、それは間違いじゃありませんね。一般的なイメージだけじゃなく、実際にそう見られていましたから。僕はとにかく白黒はっきりさせたい人間だし、そういう感情をストレートに投げてしまう。でも、投げる相手を間違えてしまうと、すごく大きなダメージを負うことになる。今の自分だったら、相手が誰なのかをもう少しよく見て、取りやすいボールを丁寧に投げるんでしょうけど。

――若い頃は違った?

戸田 どストレート。余計なことは一切考えず、自分の感情に素直でした。ただ、自分よりはるかに年上の人間、例えば同じサッカーの世界でメシを食っている監督やフロントの人が、「こんなに小さいことにこだわるわけがない」と信じていたんです。でも、「こう思います」とストレートに投げると、とんでもないボールが返ってくる。それが揺るぎない現実であることを理解して、自分の中でようやく納得できたのは30歳を過ぎてから。

――なるほど。

戸田 細かいんですよ、僕は。気になることがたくさんある。プロになって最初のクラブが清水エスパルスで、当時はすごく強かったんです。若いなりにその理由を考えて、「プロフェッショナリズムとは何か」について学んだし、それがスタンダードになった。その流れで日本代表に行くと、もっと自立していて、目的意識がはっきりしている人たち、「日本代表の一員であることの意味」をちゃんと理解していて、軸を持った人たちしかいない。だって、そうじゃなければ脱落してしまう世界ですから。

――2002年の日韓ワールドカップに出場したメンバーですね。

戸田 あのチームには、馴れ合いなんて存在しなかった。開催国として決勝トーナメントに進出することが最低限のノルマで、ものすごいプレッシャーがありました。だから、みんな必死。そういう環境では、“正しい雰囲気”が自然と生まれるんです。僕もなんとかそこにしがみついて、どうにかこうにか生き残ることができた。だから、そうじゃない環境に戻った時に迷いました。

――迷った。

戸田 自分の経験や感覚を、どこまで、どれだけのパワーを持って伝えるべきなのか。それをうまくできなかった時間が、ずっと続くんです。25歳から30歳くらいまでは、ホントにうまくいかなかったですね。

――どうしてうまくいかなかったのでしょう?

戸田 自分の心の中では、「プロフェッショナルって何?」とか「高いレベルのサッカーって何?」とか、そういう気持ちがどんどん膨らんでいった時期でした。「自分の経験を還元しなきゃいけない」という強い思いがあるのに、それを相手が望んでいない、欲していないことを思い知らされるんです。

――それが、図らずも周囲との摩擦を生んでしまう。

戸田 そう。僕は、自分が試合に出るとか出ないとか、どこのポジションでプレーするか、そういう問題で監督とモメたことは一度もありません。そんな話をしたことすらない。でも“サッカー”に対しては意見を言うから、「なんでお前がそんなことにまで口を出すんだ?」となりますよね。たとえそのチームに加入した理由の一つに、「経験を還元してくれ」というメッセージがあったとしても。期待されたことに対して張り切った結果、いつの間にか煙たがられる存在になる。その繰り返し。

――約5年も続いたと考えると、精神的にもかなりキツかったのでは?

戸田 う~ん、どうかなあ……。あの頃は、そういう状況を何とかしたいと思って、とにかくガムシャラに勉強していました。サッカーのことはもちろん、組織の成り立ち方や対人関係の作り方に至るまで。そういう本ばかり読みまくってね。でも、その間、自分に対する周囲のイメージがどんどん悪くなってしまったみたいで(笑)。

追い求めなければ
壁をぶち破れないと信じていた

――今の戸田さんから見た当時の戸田さんは、日本の、Jリーグの、とあるクラブという環境を前提とする組織論において、有益な“個”として成立しないと思えますか?

戸田 うん、しないんじゃないですかね(笑)。異質だと思う。ただ、自分が指導者だったら大丈夫かな。例えば、フィリップ・トルシエさん(02年W杯時の日本代表監督)はキャラが立っていて自分の意見を持った選手を好んだし、ヨーロッパに行けば、自分の意見や主張を持っていることのほうが当たり前。選手と監督やコーチが言い合いになる場面を何度も目にしましたけど、ピッチの中と外は別で、試合が終われば何もなかったかのように元に戻っている。そういう環境も経験しているから、「ここは日本だから」と言って諦めることは僕にはできなかった。追い求めなければ、壁をぶち破れないと信じていたから。

――その葛藤を、常に抱えていた。

戸田 いや、「追い求めること自体が間違っていたのかもしれない」と思えたのは、30歳を過ぎてから。自分を全肯定するつもりは、全くないんです。でも、その時々で所属するチームに対しての使命感や忠誠心を持って、本気で勝ちにいっていたことだけは間違いない。本当に、本気で。

――30歳を過ぎて、何を変えたんですか?

戸田 何も言わないことにしました。感じてはいるけど、何も言わない。与えられた役割だけを精いっぱいこなすことにしたんです。さっきも言ったとおり、“本気”を周りの人に求められていなければ、どれだけ真剣にその人のことを考えていたとしてもエゴになってしまいますよね。そういうことも、何も言わなくなったことで少しずつ分かり始めてくる。

――そのラインを見極めることは、誰にとってもすごく難しい気がします。

戸田 20代の僕は、そのラインを超えてしまうことがかなり多かったんだと思います。でも、それを察して理解しようとしても、チームの一員として、プロ選手としてやるべきことに対する僕なりのスタンダードがあるから、簡単には曲げられなかった。だから、ずっと「チクショー!」と思いながらやっていたんですよ。30代になってようやくやり方を変えたけど、今もまだ、本質的にはその延長線上にいる。その当時のことを振り返って「俺は間違っていなかった」と思うこともあるくらいですから。

――現役引退は2013年。当時のブログには、引退する理由として「全てにおいて自分の中で確認が取れた」という言葉がありました。何を“確認”できたのでしょう?

戸田 サッカーそのものです。上から見るのではなく、ピッチに立っていてもどこに空間があるとか、サッカーの細部や流れが理解できることを確認することができた。これ以上同じところからサッカーを見ても、サッカーのことをより深く理解することはできないと感じたんです。だから、次のステージに進むべきだと思った。

――サッカーのことをより深く理解するために。

戸田 そう。僕は小さい頃から劣等感の塊だったから、ずっと上だけを見て、そこにたどり着くためにはどうすればいいかを考えてきた。サッカーそのものを理解する必要があったし、そればかり勉強してきたんです。システムの理解、空間の理解、相手との噛み合わせの理解、そういうことをピッチでプレーしながら深めたいと思っていたし、自分のサッカーに対する理解を常にチェックしてきました。で、「ここまで来たか」と感じたのが2013年でした。36歳だったかな。

常に考えてきたのは
自分の色を持ち続けること

――“その後”については、明確なビジョンを持っていたんですか?

戸田 30歳になる前には、「俺は指導者になるんだろうな」と思っていました。だって、サッカーのことしか考えていないんだから。でも、僕にはそのための“ベース”がない。

――ベースとは?

戸田 場所ですね。「自分から見た自分」と「他人から見た自分」は大きく違うじゃないですか。僕にとっては、ありがたくない意味で大きく違う。サッカーに対しては真摯に向き合ってきたつもりだけど、大多数が抱いている僕のイメージは、赤髪のモヒカンで、プレースタイルも荒々しいし、キャラが強いし、どこに行っても問題を起こす。そういう感じだから、当然、指導者としてのオファーが届くはずもない。

――なるほど。

戸田 僕自身のプロとしてのあり方に原因があったのは間違いありませんが、例えば僕と同じくらいの経歴があったとして、引退する時に一つもオファーがないということは、ひょっとしたら珍しいことなのかもしれません。それは、こういう生き方をしてきた自分のネガティブな部分。じゃあ、ポジティブな部分はどこかと考えると、一つだけ思い当たる。サッカーについては、みんなが知らないことをたくさん知っているぞと。

――現役時代、ずっと行き場を失っていた思いですね。

戸田 そう。だから、まずはネガティブな部分を覆すために、サッカー中継の解説者という仕事を選んだんです。「戸田はバカじゃない」ということを、少しでも多くの人に理解してもらう必要があった。

――それほどはっきりとした意図があって、解説のお仕事をされていたとは……。しかも、そうした狙いはむしろあっという間に達成された気がします。今や信者と言えるほど、戸田さんの解説を楽しみにしている人もいるくらいですから。

戸田 そう言ってもらえるのは、すごく嬉しいですね。今まで生きてきた中で常に考えてきたのは、「自分の色を持たなければいけない」ということなんです。「自分=○○」。この「○○」がすごく大事で、今の自分にはそれがあると思っている。解説の内容で言えば、戦術とシステム、駆け引きと采配。現役の頃から考えて、考えて、蓄積してきたことであり、それがなければサッカーじゃないと思っていますから。だから、それをしっかりと磨き続けたい。

――指導者にたどり着くための“戦略”として解説の仕事をされて、丸3年が経過しました。手応えはいかがですか?

戸田 たぶん順調だと思います。なぜかと言うと、実際に指導者としてのオファーをいただけるようになったから。指導者S級ライセンス(Jリーグの監督を務められる国内最高ランクの指導ライセンス)の試験も無事に合格できたので、あとは、どのタイミングで次のフィールドに行くかですね。

――すごく楽しみです。

戸田 でも、解説の仕事もすごく好きで、「俺にやらせてくれ!」と思う試合がたくさんあるんですよ。だって、僕はすべての時間をサッカーに費やしているし、誰よりも多くの試合を見て、勉強しているという自負があるから。準備するほど話したいことが増えすぎて、枠に収まり切らない。それが最近の悩みなんです。

――腑に落ちました。選手であっても、解説者であっても、指導者であっても、立場が何であれ、戸田さんを突き動かす原動力は「サッカーがとんでもなく好き」という思いなんですね。

戸田 そうそう、そういうこと。とにかくサッカーが好き。ウルトラ好き。それだけは胸を張れますね。だって僕にはサッカーしかありませんから。

Photo by 稲垣正倫
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