偉人たちに学ぶ、苦しいときの「克服マインド」
歴史に名を刻んできた日本の名将たちも、スーパーマンや超能力者だったわけではありません。私たちと同じ、ひとりの人間です。しかし、生きる知恵や考え方が一般人より一歩二歩進んでいる、という理由で教科書に名を刻むような成功を手にしたのではないでしょうか。
ここでは、遠越段さんの著書『偉人たちの失敗』より、名将と呼ばれる人たちにスポットを当て、困難に打ち勝つ生き方について参考にしてみたいと思います。
01.
困難や逆境を前に動揺せず
楽しんでみる
「もし艱難に出会おうとも、これを乗り越えていくぞと覚悟をしたならば、いよいよ正しい道を行く、そのことを楽しむべきである。私は、若いころから艱難という艱難に出会ってきたので、今はどんなことに出会っても動揺することはないだろう。それだけは仕合わせである」
西郷隆盛(軍人/日本)
「おれが西郷に及ぶことのできないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ」。
勝海舟が西郷隆盛を評した言葉です。若いころ地方まわりの役人をしていた西郷は、農民の苦しみを肌で感じ、何とかしなければと意見書を島津斉彬宛に出しました。これは、彼にとって自らの出世や名声よりも、重要だったのではないでしょうか。
つまり、国を良くしていくことや、人のためになることなら、どんなことも苦労とは思わないのでしょう。
西南戦争でかつがれ、最後に討ち死にしていく西郷を批判的に見る人が多いのも事実です。しかし、彼がいたから明治維新が起きたのです。冒頭の言葉にあるように、西郷にとって死ぬことも大困難のひとつとして楽しみ、国家、社会が良くなっていくことに尽力できる喜びを感じていたのでしょう。
私たちは、そこまでできないにしても、少々の苦しみや崖っぷちなど「なんてことないさ。楽しんじゃえ」と言って乗り切っていくことを、彼から学ぶべきなのです。そう思うことで、ピンチも困難も大きな飛躍のための踏み台になるし、人生のまたとない学びになるでしょう。
02.
急ぐべからず。
繊細さと熱い魂のバランスを
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
徳川家康(戦国武将/日本)
現代の日本のことを思うと、家康が権力を握り、徳川幕府を開いて徳川の時代を築いたことは、大きな意味があったと思います。なぜなら江戸時代において日本の武士道は完成し、日本独特の文化が発展し、日本人の勤勉さ、誠実さがいっそう固められたからです。
徳川家康は律儀で誠実だと、まわりからも評価されていました。そんなおだやかな心を持ちながらも、三方ヶ原の戦いでも、姉川の戦いでも、相手がいかに強力で、数において優っていようが、躊躇することなく戦いを挑んでいます。
関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍が勝ってもおかしくなかったし、大坂夏の陣でも真田幸村の手によって家康が殺されていてもおかしくはありませんでした。つまり彼は、義理堅い人でありながら闘将としての素質も持ち合わせていたのです。一方で、小さいころから今川や織田の人質として育ち、我慢を重ね、学問を愛した人でもありました。
繊細さと熱い魂を持っていたからこそ、冒頭のような言葉が出てくるのでしょう。
03.
なにが起きても
「大したことない」と思う
「大事だ、大事だと問題の重大さに気をとられると、いい判断はできない。重大なことも鼻歌まじりで大したことないと考えた方がいい判断ができる」
鍋島直茂(戦国武将/日本)
佐賀、鍋島藩祖の鍋島直茂は、もともと龍造寺政家を主として仕えていました。
そんなある日、佐々成政が領していた肥後(現在の熊本県)で反乱が起きます。近隣の諸将は実権を握っていた豊臣秀吉の命令によって討伐の軍を出しました。その頃、直茂は大阪にいて、急いで戻りましたが…なんと政家は病気だと言って参陣していなかったのです。
直茂がなぜ参陣しなかったのか問うと、政家は「討ち死にするという神のお告げや不吉な吉兆があったからだ」と答えました。直茂は「そんなことで心配していてどうする」と政家を強引に連れ、自ら二万余騎を率いて肥後に出陣したそうです。直茂の大胆な行動を見て秀吉は彼の力量を評価しました。
直茂は、何が大切で、何をやりたいのか、何をやるべきかを単純に考えているだけで、余計な世間体や神のお告げなんて気にしていません。なぜならば、何が起きても大したことがないと考えているからです。やるべきことをすぐにやれば、うまくいくと常に思っているのです。
後に、政家に器量が欠けていたこともあり、佐賀三十五万七千石の家督は直茂に任せられるようになりました。何が起きても「大したことないさ」という器をもっていたからこそリーダーになれたのでしょう。