「四国11日間・無一文の旅」。最後に見た、栗城史多さんからのメッセージ
(前編はこちら)
「今日は○○へ行きます。旅の話をしますので、よろしければ何か食べさせてください or 一晩泊めてください」
とTwitterでつぶやいては反応を待ち、声をかけてくださった人に会う。そんなギリギリのことを繰り返しながらも、本当に11日間無一文で四国を旅することができた。四国では宇和島、松山、徳島、高松などを回った。中には高速道路を走って次の町まで送ってくださった方もいた。
誰に会っても「ほとんど食べてないでしょう。たくさん食べなさい」と、決まってご馳走を恵んでくださったおかげで、逆に太って帰ってくることになった。
「無一文」の体験が
教えてくれたこと
誰かに自慢できる話ではないし、無一文での旅を勧めるつもりもない。
でも、この体験をすることには、純粋に価値があった。
こんなにお金について考える時間を持ったのは、初めてだった。人の援助があったからとはいえ、お金がなくても旅ができてしまい「じゃあ、お金っていったい何だろう?」と、来る日も来る日も考えていた。
「ポケットに財布がない」というのは、とても落ち着かないものだった。しかし、日が経つにつれて、解放感が生まれて気持ちよくなってきた。お金を忘れる、お金から自由になる、という状態だったのかもしれない。
お金を持つ普通の生活に戻っても、「無一文」の精神は大切なことだと思った。無一文の精神。それは「必要のないものは買わない」=「本当に必要なものだけを買う」ということ。「普段だったら、ここで飲み物を買ってしまうな」と思うことが何度かあったが、もちろんお金がないので買うことはできない。
しかし、時間が経ってみても、その飲み物を買う必要性を感じることはなかった。欲しい、と思ったけど、別に必要なかった。無一文になったおかげで、生きていくうえで本当に必要なものは何かと、真剣に考えるようになった。もしかしたらぼくは、本当は不要なものを、たくさん買っているのかもしれない。
無一文。それは流れていく感覚。お金がないことによって、選択肢は減る。しかし、選択肢の少ないほうが、余計なことに悩まなくなり、人生はシンプルになるのかもしれない。漫画『バガボンド』に出てきた言葉を思い出した。
「お前の生きる道は、これまでもこれから先も、天によって完璧に決まっていて、それが故に、完全に自由だ」
しかし、結果はどうだったか。自分の頭で考えて行動していたら会えなかったはずの人に会えた。お金を持っていても泊まれなかった場所に泊まれた。ガイドブックにも載っていない、地元の人おすすめの場所にたくさん行けた。
これらは、「お金があればできた」という類のものではない。つまり、お金を持っていても決してできないことを、無一文のぼくがしていたのだ。
自分自身が風のように漂い、余計な力を抜いて、何にも逆らわずに流されていくことで、むしろ完全な自由を手に入れることができるのかもしれない。そして旅の価値は、お金によって左右されるものではないのかもしれない。
きっと人間は、「自然の流れ」に逆らってはいけないのだろう。「自然の流れ」は、人間の判断ごときで敵う相手ではない。だからこそ力を抜いて、大きな流れに身をゆだねれば、もっと人生は楽になるのだろう。
もしもあの時
転倒していなかったら
恵比寿に着くと、改札の向こうで待っていた社長が手を振ってくれた。ぼくは無事に帰ってきて、ぼくの財布も無事に返ってきた。
「ようやったよ、中村くん」
ようやく旅が終わった。おいしいお寿司をご馳走になりながら、社長と語り合っていた。
「そういえば、栗城くんに封筒もらったやろ。あれ開けたか?」
「いえ、開けずに済みました」
「ほんなら、ここで開けてみよ」
その封筒の表には、「本当につらかったら開けてみてちょ」と書いてあったから、ぼくはきっと、お金が入っているのだと思っていた。いざというときには、きっと栗城さんがそのお金でぼくを助けてくれたのだろう。
しかし入っていたのはお金ではなく、ひと言だけ書かれた紙切れだった。
「苦しみに感謝。」
それで、ようやくわかった。半年前、南フランスの田舎道で転倒事故を起こした理由が。この言葉の意味を、体験を通してぼくに教えてくれたのだと思う。
もしあのとき転倒していなかったら、ぼくはニースのマクドナルドで社長の奥さんに話しかけることもなかったし、栗城さんに出逢うこともなかったし、無一文の旅をすることもなかったし、旅先で素敵な人たちに出逢うこともなかった。自分の身に起きるすべての出来事には、何かしら意味があるのだと思う。
だから、苦しみにも、感謝なのだ。