「箱根駅伝」の歴史は、バレンタインから始まっていた!
何気ない一日に思えるような日が、世界のどこかでは特別な記念日だったり、大切な一日だったりするものです。
それを知ることが、もしかしたら何かの役に立つかもしれない。何かを始めるきっかけを与えてくれるかもしれない……。
アナタの何気ない今日という一日に、新しい意味や価値を与えてくれる。そんな世界のどこかの「今日」を探訪してみませんか?
第1回「箱根駅伝」開催
「東京箱根間往復大学駅伝競走」(通称:箱根駅伝)といえば、お正月の風物詩。総合計217.1kmの距離を各校10名の選手が母校の襷(たすき)をつないで走るアレ。
2024年には100回目のメモリアル大会を迎える歴史ある駅伝ですが、その記念すべき第1回が実施されたのは、意外にも2月のど真ん中!1920年2月14日そして翌15日にかけて開催されたのです。
この第1回、今あらためて情報を見てみると、かなり現在とは勝手が違ったようでして……。
そもそも、マラソン選手として3度の世界記録を樹立し、日本人として初めて五輪代表となった“マラソンの父”こと金栗四三の発案で、アメリカ大陸をリレー形式で横断する計画が持ち上がり、その代表選考会という形で開催されたのが、この箱根駅伝でした。
関東の各大学・師範学校・旧制専門学校に声をかけるも、長距離ランナーを10人揃えることはなかなかにハードルが高く、結果、スタートラインに立ったのは、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、そして東京高等師範学校(現:筑波大学)のわずか4校でした。
ちなみに、大会がスタートした当初は、陸上部だけで10人集めることができなかった学校は、ラグビーや投てき、スケートなど他の競技から助っ人選手を呼んで大会に臨んでいたりもしたんだとか。
さらに、往路のスタート時間は、なんと13:00!なんでも、選手たちは午前中の講義終了後に箱根へと向かったそうですよ。
そんなこともあってか、1位で明治が往路のゴールテープを切ってから遅れること1時間20分。4位慶応が芦ノ湖に到着したのは、なんと午後21時53分!
最後は青年団(今でいう大会ボランティア)が松明を灯して選手たちを誘導したそうですが、2月の夜の箱根の山はさぞかし寒かったことでしょうね。の前に心細すぎる……。
そんなこんなで復路は東京高師が制し、15時間05分16秒のタイムで総合優勝を果たしました。
箱根路に挑む歴史にはいろいろあったんですね〜。
というわけで、まったく関係はありませんがみなさま、ハッピーバレンタイン!