「やっぱりバスケが好きなんです」ヘラルボニーで働く伊藤良太が選手に復帰したワケ

「株式会社ヘラルボニー」、至るところで彼らがキュレーションした作品を目にするようになって久しいが、その会社の内側までを知る人は少ないかもしれない。

TABI LABOの人気連載「俳句ジョージ」において、彼がコラムで『ART IN YOU アートはあなたの中にある』の感想文を寄稿してくれた時、ジョージから直接話を聞いて、彼らがまさに“新しい時代を創る”最先端にいることを認識し、インタビュー取材を実施。

詳しく話を伺うとヘラルボニーの社内には、異色の経歴を持ったたくさんの“異彩を放つメンバーたち”が揃っているが、その粒揃いの中でも伊藤良太氏は、会社にとって特別な存在だという。

なんでも、人事責任者として入社した後、バスケットボールのプロ選手として『しながわシティバスケットボールクラブ』と契約を交わし、現在はその両軸で社会貢献を行なっているのだ。社会福祉、スポーツと地域活性化、そして新しい働き方──。たくさんの大切なキーワードを抱えてインタビューに臨んだ私は、「スポーツを通して社会を変える」という言葉から決して口先ではない、彼の覚悟を感じることができた。

伊藤良太

1992年神奈川県生まれ、慶應義塾大学出身。2019年、Bリーグチーム『岐阜スゥープス』から『岩手ビッグブルズ』に移籍。2022年7月からヘラルボニー人事責任者として働く傍ら、今年2023年7月から『しながわシティバスケットボールクラブ』と契約しプロ選手に復帰。

スポーツに力をもらい、
スポーツで力を与える。

——まずは伊藤さんの幼少期の頃についてお伺いしたいです。学校ではどんな生徒で、何をやられていたんでしょうか?

 

出身は神奈川県の大和市という横浜市の隣にある市で、中学生までそこで育ちました。小学校4年生までは、運動神経が良くて足が速い学生でしたね。

4年生の秋頃までは水泳を習ってたんですけれども、ある日ふと「バスケットボールをやりたい!」って思いまして(笑)

 

——そんなきっかけなんですか(笑)

 

他の人に言うと馬鹿にされることもあるんですけども、本当に天から降ってきた感じなんです(笑)

そこから親に相談し、ミニバスケットボールクラブに入ってから、もう完全バスケ小僧って感じで生きています。

 

——「note」では、自身の経歴のことについて書かれたブログを読ませてもらいました。中学1年生の頃には、学校に通えない時期があり、 みんなと一緒のスピード感に馴染めなかったと書かれていましたね。

 

4年生からバスケット始めて、もう本当にバスケットが大好きで、圧倒的な熱量と、日本一になりたいということ、そしてプロ選手になりたいっていう夢がその時からありました。

地元の中学校に進学はしたんですけれども、私以外はほとんど初めてバスケをする学生でして。顧問の先生もほとんど初めてという環境下のなかで、私は鼻息荒く、「日本一になるぞ!」と入部をしたんです。

今思うと、目的や部活動の意義だったりは理解できるんですけど、やっぱり、まずはみんなと一緒に外を走ることなどが求められますよね。当時の私はプロになりたくて、バスケットボールをずっとやっていたい少年だったので、先生から呼び出されたりとか、仲間といい争いになることが多かったです。

 

——いわゆる“体育会系のノリ”みたいなことですかね……。

 

はい……。そこから段々と、この思いっきりやれない環境に対して、ストレスを感じ始め、ちょっとずつ体に異変が出てきました。率直に言うと、すごく気分が悪くなったり、頭が痛くなったりする症状が出て、学校に行かずに公園に行ったりとか、登校しても直接保健室に向かったりすることが続きました。

その時、心が正常じゃないなってことに気づきました。学校に行くことが苦しかったですね。

 

——日本の多くの学校の部活動にあると思われる“体育会系のノリ”みたいなものに対して、自分の中でどう向き合い方を変えたのでしょうか?

 

学校教育のあり方と、プロになりたいという思いには、やっぱりギャップがありまして。私の場合だと、たまたま中学校1年生の冬の時期に、 地区選抜の先輩に「こっちの学校に来れば」と声をかけられたことが大きな転機になりました。

そこから親へ相談をして「転校したい」と伝えて、もう住所も変えて転校した結果、当時の自分の熱量を思いっきりぶつけられる環境に出会えましたね。

今振り返ると、プロになった大きなきっかけのひとつだったのかなと。逆にその決断がなければ、自分が今何をしているのかも想像がつかないです。当時のことを思い返すと、結構きつかったので……。

 

“自分を表現できる環境”を求めて

——伊藤さんはまず社会に出て、大手保険会社に勤められた後、プロバスケットボール選手になったというキャリアをお持ちですよね。現在のキャリアに至るまでの流れを教えていただけますか?

 

最初は新卒で大手の保険会社に勤めながら、東京の実業団のバスケットボールチームでプレイしてました。そしたら、社会人4年目のタイミングで岐阜県に転勤になりまして。その年にちょうど岐阜県にあるプロバスケットボールチームが誕生したんですが、その時トライアウトを受けて、アマチュア選手として採用されることになりました。

するとワンシーズンが終わるタイミングで、岩手県からプロ一本でやらないかと声をかけていただいて、会社を辞めて、岩手で3年間プロスポーツ選手になったという流れです。

 

——なるほど。岐阜県や岩手県などの地方都市でスポーツ活動や生活していた際に、伊藤さん自身が大きく影響を受けたことはありますか?

 

それはものすごくありますね。実は就職活動をする時のひとつの軸で「東京を出たくない」っていう思いが当時はあったんです。都心部にいた方が友だちが多かったりだとか、娯楽も多くて楽しいっていうイメージがあって、地方に対する勝手なバイアスが自分の中にありました。

その後、会社の仕事で岐阜県に転勤になった時に、もう一気にそのバイアスが崩れ落ちました。地方の温かさに触れて、最高だなという思いが湧いてきましたね。

それこそ選手をやりながら会社員もやっていたので、いろんな方々と触れ合う機会がすごく多かったんです。やはり“一次情報って本当に大事だな”ということを感じることができましたし、一方で、スポーツの力を活用して、地方にいる純粋な子たちにポジティヴな良い刺激を与えたいなと改めて強く感じるようになりました。

 

——個人的には前述の「note」で「直感を信じた人生だった」というふうに書かれていたのがすごい印象的でした。伊藤さんが今半生を振り返ってみて、当時迷っていた自分に対して、どういう言葉をかけてあげたいでしょうか?

 

ありがとうございます。なんか、こうして偉そうに話しているんですけど、本当に会社員を辞める時ってすごい覚悟がいりまして(笑)

実は1度プロスポーツチーム全部断って、やっぱり辞められませんっていうことが当時あったんですね。やっぱりプロになった時の給与面や怪我をしたらどうするかなど、不安は尽きませんでした。個人事業主で、来年契約があるかは分からない世界ですので。

ただ、最後に背中を押したのは、自分が死ぬ瞬間にバスケットボールのプロ選手になれたのに選ばなかったら後悔しないのかっていうことでした。そう問いかけると、絶対に後悔するという気持ちがあったので、今の道を選びました。

やっぱりプロ選手だからこそ気づけることがあると思い直して、もう1回岩手のチームに連絡して、プロでやらせてくださいと伝えさせてもらいました。

 

——伊藤さんの話を聞いていると、“プロスポーツが持つ地域活性化の力”をすごく信じている気持ちが伝わります。伊藤さん自身が、実際にプロスポーツから元気をもらったりとか、選手から影響をもらったことがあったりするんでしょうか?

 

そうですね。私の場合だと、本当にNBAが大好きで、憧れの選手も多かったので、ずっとその選手たちの真似しながら小学校から歩んできました。

憧れだったり、尊敬だったり、そういうものが“圧倒的な原動力”になっていたなとは今も感じていています。だからこそ、自分がプロとなった今もそこは強く意識していますね。地域の子どもたちからすると、地元にあるプロスポーツ選手ってひとつの憧れになると思うんです。

憧れる選手がどんな立ち振る舞いをするのか、どういう表現者なのかについて考えることは、いち競技者としてレベルアップするだけではなくて、いろんな意味で刺激を与えられるんではないかなって思いますね。

特に、私が地方(岐阜県と岩手県)でプレイしていたこともあるので、そこへの意識は強いかもしれません。

 

株式会社ヘラルボニーとの邂逅

——「子どもたちが公平に歩みやすい社会を作りたい」ということが社会人の時からのビジョンだと伺いました。そのような思いは、いつ頃に芽生えたんでしょうか?

 

これは25歳の時に「地方と都心部の機械格差」について書かれた記事を目にした瞬間でした。

私自身、すごい使命感にかられた瞬間でしたね。その時は、会社員として勤めながらバスケやってた時期で、振り返ると熱意を込めて生きていなかった時期が2年くらい続いていたんです。

「あ、こんなんじゃダメだ」と強く思って、私自身が本当に好きなスポーツができる環境のおかげで生かされていたからこそ、それができない子どもたちがいるんだったら、もう人生をかけてそれを変えたいっていう気持ちを25歳のタイミングから抱えながら生きてます。

これは、私自身が中学校時代に好きなスポーツを思いっきりできなかった経験があったことも結びついているんだと思います。

 

——その強い思いが、最終的に現在働かれている「株式会社ヘラルボニー」が考えているビジョンやミッションに近かったのは偶然ではないですよね。ヘラルボニーとの出会いはどういう流れだったんでしょうか?

 

そうですね!ヘラルボニーが制作するアートマスクをたまたまSNSを通して見かけて、それはもう衝撃でした。私、アートに無縁だった人間なんですけど、凄いかっこいいっていうのがヘラルボニーとの出会いの始まりで、そこからホームページを見て《異彩を、放て。》という企業ミッションに、強く惹かれました。

で、その時はちょうど私が岩手県でプロ選手をやっている時期でして、丁度新型コロナウイルスによってシーズンが中断していたんです。

「何のためにプロ選手になったんだろう」とすごく悩んでいた時期に、このアート作品と企業ミッションに出会って、今すぐに社長の松田兄弟(株式会社ヘラルボニーは松田崇弥、松田文登の2人よって創業)に会いに行きたいってなりました(笑)

そこから知人に連絡をして、その翌日には、岩手にいた社長の松田文登とカフェで落ち合って、お互いのミッションやビジョンについて熱く語ってましたね。

 

——その2ヵ月後には、ヘラルボニーと当時伊藤さんが所属していた「岩手ビックブルズ」のコラボユニフォームが実現したと。

 

はい。ユニフォームは基本的に決まっているのですが、バスケットボールには第三のユニフォームというものがあって。岩手ビッグブルズは、復興のシンボルをビジョンに掲げていて、“復興祈念試合”というのを毎年開催しているんです。

そのユニフォームが、ヘラルボニーとコラボできたら最高だなと思いまして。その年は、ちょうど震災から10年目の年だったのですが、スポーツと福祉、そしてアートを掛け合わせた時に、本当に1人1人が生きやすい社会をというメッセージングとしてやりたいよねという経緯もあり、所属するビックブルズのオーナーとも繋いで、話が決まりました。

試合は釜石で行われたんですけども、釜石の作家さんである小林覚さんに『マイ・ライフ』という作品を書いてもらって、実際に試合にも来てもらいましたね。

 

——ズバリ、その時の感想は……?

 

やっぱり嬉しかった瞬間でしたね。なんとか試合も勝てました(笑)

自分のビジョンとヘラルボニーとの出会い、そして岩手ビックブルズとのコラボレーションが釜石の地から届けられたっていうのは、本当に嬉しかったです。

一方で、これが一過性のもので終わりたくないって思いもあって。これが特別なことでなくて本当の日常になり、馴染み込ませたいなっていう思いもありました。

そこから翌年はヘラルボニーにシーズンのユニフォームを制作してもらったり、冠試合にも繋がることになるのですが、当時はこれが日常になるようなアクションに繋げていきたいなと考えていました。

 

異彩を放つメンバーと共に、垣根を越える

——伊藤さんは一度バスケットボールの選手を引退されたあと、株式会社ヘラルボニーで人事として働かれていましたね。そこから入社1年後の今年6月、プロ選手として復帰することが発表されました。そのきっかけはなんだったんでしょうか。

 

もちろん、シンプルな理由としてバスケットボールが大好きで、まだやりたいという気持ちが大きかったことが言えるのですが、実はヘラルボニーと協働してくれている作家さんの存在も大きいんです。

作家さんたち、それぞれの思いで作品を描いてるとは思うんですれど、自分が描きたいっていう純粋な気持ちと向き合って絵を描く姿を見ていると、自分自身を問い直す瞬間が多かったんです。

私もスポーツが好きで、バスケが大好きだっていうところに立ち返った瞬間が何度もあって、作家さんからもの凄く刺激を受けた1年だったと思ってます。

 

——当時、プロスポーツ選手に復帰されることを社内に発表したとき、どのような反応がありましたか?

 

そうですね。全社発表でプロに戻ることを伝えたとき、当時はどう思われるのかとても不安でした(笑)

けれど、発表後にはみんな「応援するよ」とか「観に行くよ」と言っていただけて、 自分にとったら普通、けれど周りにとっては違う歩みをしている自分を、ヘラルボニーのメンバーは暖かく応援してくれて、迎え入れてくれる環境にあることを実感しましたね。

あらためて、このチーム、組織っていうのは大切で、《異彩を、放て。》と言える環境は中から作っていきたいなっていうのを今も思ってます。

 

——ヘラルボニーは、“福祉実験カンパニー”として、障害のある方たちと協働をされています。彼らと一緒に仕事をしていくなかで、もっとも印象的だった出来事はなんでしょうか。

 

印象的だったのは、私が岩手の時に所属していた岩手ビッグブルズで 「ヘラルボニーデー」という試合をさせてもらったことかもしれません。

その試合では、障害のある方や福祉施設の方を350名招待させていただいて、実際に車いすバスケの日本代表の方にも試合のゲストにお越しいただいたんです。

その時、あの空間では、本当に様々なバックグラウンドを持つ人が、スポーツを楽しんでいました。障害あるなし関係なく、みんなで楽しむ。で、それぞれ楽しみ方も違うし、喜び方も違う。そういったことを、あの空間では実現できていたなと思います。

そして、そういう空間を社会に実装していきたいと思いました。

私は、スポーツをやってきた人間だからこそ、社会だったり福祉の部分で、全員がまぜこぜに一緒の空間を作っていくということにチャレンジしていきたいなって。

そういう出会い方をすることによって、例えば障害に対する見え方だったりとか、価値観だったりが、もしかすると街中で会うという時よりは違うのかなっていうのは感じています。そういうことを私自身は作り上げていきたいなと思ってます。

 

——確かに、スポーツと福祉を繋げるってことは、伊藤さんにしかできないことのひとつだと思います。最後に、伊藤さんの考える理想の社会像だったり、未来の姿を教えていただきたいです。

 

ここはもう本当にシンプルです。まず《異彩を、放て。》という企業のミッションに付随して、やっぱり80億人の方がありのままに生きやすい社会を実現していきたいっていう思いがあります。

そのなかで、自分のビジョンとしては、子どもたちが公平に歩みやすい社会を作るってところに繋がっていくと本気で信じています。

今回、プロに戻ったという決断も、ありのままに生きてはいるんですけども、ありのままに生きるためには、結構、勇気がいる部分も多い。

自分って、プロスポーツ選手というわかりやすい職業だなと思っているからこそ、そこはある種の責任だとも感じています。自分がチャレンジすることによって、1人でも多くの人が、そういう生き方でもいいんだなと感じてもらえる。

そのソフト面のところも繋がっていけばいいなって思いはあるので、 今はやっぱりヘラルボニーの一員として働きながら、プロスポーツ選手として最大限のベストを尽くしていきたいです。

©ヘラルボニー

『福井将宏企画展「flowers」』

 

今年で創業5周年を迎えるヘラルボニーは、鳥取県鳥取市にある「一般社団法人 アートスペースからふる」に在籍する福井将宏(ふくい まさひろ)氏の企画展「flowers」 を、現在岩手県盛岡市にある「HERALBONY GALLERY」で開催中。

大胆な画面の構成と筆の運びとが相反し、温かみと優しさを感じさせる作品の数々が、約20作品ほど展示されている。アイコニックな花がモチーフの作品のほか、福井氏の手から生まれた「福井フォント」と呼ばれる作品も展示されているというので、盛岡に訪れた際には、是非足を運んでみてほしい。

『福井将宏企画展「flowers」』
会場:HERALBONY GALLERY
会期:2023年7月22日(土)〜9月10日(日)
開廊日:土、日、祝日
時間:11:00〜18:00
※ 8月1日(火)〜8月4日(金)は11:00〜16:00まで開廊しています
WEBサイト:https://store.heralbony.jp/pages/heralbonygallery-iwate

これからの世界を創りあげていくであろう

新時代の『イノベーターズの頭の中』を覗いてみよう。

Top image: © ヘラルボニー
TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。