南米最高峰の山頂で祈る聴覚障害者。その姿は大切なことに気づかせてくれた

「なぜ、山に登るのか?」という問いに対する「そこに山があるから(Because it is there. )」という回答は、決してあなたが山に精通しているわけでなくとも、一度は聞いたことがあるのではないか。

山に登るという行為の理由は、それを経験したことがない人に説明するのは難しい。ただし、どこか詩的な余韻を残したジョージ・マロリーのことばは、その奥深さを端的に表しているといえる。

要は、言葉では表現しにくいものではあるが、人間らしい営みなのだと思う。 前回の記事で、僕は「常に死が隣り合わせにあるなか、生活におけるすべてを見直す作業は、ひとつずつ人生の目盛りや単位を振り返るような石橋を叩いて渡る作業に近い」と記したが、ではそれが目的かといえば、決してそうでもない。

たとえば、聴覚障害をもつナベルの場合

僕がアンデス山脈にある南米最高峰の山・アコンカグアに登ったときのこと。登頂してから5分後にやってきたのが、ナベルという青年だった。他の登山家が次々と登頂を断念し下山する悪天候の中、ボロボロの状況で山頂まで辿り着いていた。

彼は間も無く、山頂のシンボルである十字架に向かってうずくまった。ちょうど僕は写真を撮っていたタイミングだったため彼に話しかけたが、どうも返事がない。

しばらくして、ナベルがデフ(聴覚障害)であることがわかった。彼は胸のポケットから息子の写真を取り出し、十字架の先端に貼り付けた。幼い一人息子の写真だった。

後から丁寧に身振り手振りで教えてくれたのだが、その息子は病院にいて、耳が聞こえているかどうかわからない状況らしい。ナベルは十字架に寄りかかり、息子の耳が聞こえることを泣きながら祈り続けていた。

その後、十字架を背にして、自らには聞こえていない声で話しかけている姿をスマホで撮影し続けていた。下山したら、息子に見せるのだと言う。

改めて、山登りとは。

あくまで個人的な見解であるが、 山登りという行為は山を登るその人自身の「祈りの強さ」を可視化できる行為だ。

山頂までの道のりが苦しければ苦しいほど、自らの祈りの強度を確かめられる。山頂に到達した時には、実生活では感じにくい己の「祈り」を、身体を通して体現していることへの喜びを感じることができる。いわば、自身の心技体を再認識できる気がするのだ。

世界七大陸最高峰に日本人最年少で登頂した南谷真鈴さんは、「山登りは瞑想に近いもの」と言っていたが、現代の日本社会では言語化しにくい、スピリチュアル的な要素が山登りにはあるということは否定できない。

2019年ラグビーW杯開催の成功を祈って

改めて説明することもないが、現在「ラグビー登山家」を名乗って活動している僕は、一人のラグビーファンとして、2019年に日本で開催されるW杯の成功を心の底から祈っている。おそらく、僕だけでなく過去にラグビーに携わっていた人はみな、同じ気持ちだろう。

しかし、野球やサッカーと比較すると、ルールがややわかりにくいラグビーは、なかなか拡散されにくい。個人の嗜好で情報にフィルターをかけられるこの時代に、ラグビーというコンテンツは、興味のない人へは届きにくいのだ。

だからこそ僕は、強く祈るしかない。

そして、可能であればそれを可視化し、僕ではない誰かにも共感してもらうことで多くの人を巻き込みたい。

2019年ラグビーW杯に対する僕の「祈り」そのものをプロジェクト化し、日本だけでなく、世界中のラグビーファンの祈りを集約させることが、いま僕が挑戦している冒険の目的なのだと、ナベルの背中が改めて気づかせてくれた。