【ジャズを知る】黒人地区の音楽から、一夜で世界のメジャーになった「ブギウギ」
ジャズの生演奏はライブハウスよりも、小さなバーなどで行われることが多いですが、そのルーツは、ジャズの歴史にあるのです。
今回はちょっと変わった成り立ちをもつジャズ、「ブギウギ」のエピソードについて、油井正一さんの著書『生きているジャズ史』より、紹介したいと思います。
禁酒法が醸造した
ギャングとジャズ
1920年に施行された禁酒法により、表立って流通しなくなったアルコールは裏に流れ、ギャングたちの収入源となりました。アル・カポネがシカゴを牛耳り、トム・ペンターガストは行政と手を結んで、カンザスシティの政治や経済を支配しました。
しかし、そのおかげでジャズミュージシャンたちは、ギャングが集うナイトクラブや酒場での演奏という職を見つけることができたのです。とくにカンザスシティではギャングたちの庇護の下、1930年からの大恐慌をものともせず、ジャズミュージシャン達は失業知らずでした。
そんな中で「ブギウギ」も生まれました。
ハウスレントパーティーで
家賃を稼ぐ
ブギウギは、シカゴやカンザスシティのクラブのステージで演奏されたものではありませんでした。もっと街の片隅の、高級クラブなんてまったく縁のない人々の中から生まれたものです。
ギャングの横行は街の発展にも貢献し、南部の黒人たちは仕事を求めて移住してきました。しかし住めるのは黒人地区。限りあるアパートメントに人が殺到したため家賃は高騰し、昼の稼ぎだけでは賄いきれなくなりました。
そこで彼らは自宅を使い、料理持ち込みの「ハウスレント(家賃)パーティー」を頻繁に開きました。入場料の50セントをかき集め、家賃をひねり出そうとしたのです。
ブギウギの父
「ジミー・ヤンシー」
ジミー・ヤンシーは、行く先々のハウスレントパーティーで歓迎されました。彼の弾くピアノは、左手で同じフレーズを繰り返す不思議なブルースを奏でました。
ジミー・ヤンシーは芸で食べていく一家に生まれ、自身も子供の頃から歌や楽器の演奏で稼いでいたそうですが、ピアノは独学。自宅には練習用のピアノさえなかったという逸話も残っています。ハウスレントパーティーでの演奏も副業として行っていたので、生涯一度もコンサートステージに上がることはありませんでした。
ヤンシーはいち労働者として、1951年に59歳でその生涯に幕を下ろすまで「シカゴ ホワイト・ソックス」の球場のグランドキーパーとして勤めあげました。しかし彼の演奏スタイルは、世界中で様々な楽器によって演奏されるほど、愛されるようになったのです。
ブギウギの名付け親
「パイン・トップ・スミス」
ヤンシーの不思議なピアノの演奏スタイルは、当初名前がついていませんでした。しかしハウスレントパーティーで主流となり、演奏するミュージシャンも増えていきました。「ブギウギの名付け親」とも言える、25歳の若きミュージシャン、パイン・トップ・スミスもそのひとり。
ブギウギの名前は、パイン・トップ・スミスが1929年のレコードに録音した歌の題名、「ブギウギ」に由来しています。不幸なことに、パイン・トップ・スミスはレコードを録音して間もなく、事故により亡くなりました。このレコードが日の目を浴びるのは、彼の死後8年近くも経ったあとのことでした。
「副業」のブギウギは
なかなか認められなかった
ハウスレントパーティーのブギウギに熱狂するあまり、仕事がおろそかになってしまう人もたくさんいたようです。シカゴのタクシー会社では、黒人の運転手たちがブギウギに夢中になっているのに困り果て、とうとう運転手のためのクラブを作り、そこから仕事の呼び出しを受けられるようにしたという逸話まで残っています。
しかし世界的に見ると、ブギウギはジャズとして認知されていませんでした。演奏者の多くが、専業ではなく副業としてピアノを弾いていたからです。そのため、後にブギウギのレコードを作ろうとしたとき、曲の作曲者の大半が見つからなかった、ということもありました。
一夜にして
メジャー音楽へ
そんな“マイナーメジャー”と言えるブギウギでしたが、一夜にして世界の脚光を浴びるようになったのです。1938年のクリスマスイブ、カーネギー・ホールで「フロム・スピリチュアルズ・トゥ・スイング」というコンサートが開催されました。
当時、ジャズの表舞台は、白人にも受け入れられていたスイングが全盛でした。そこで、黒人の持つ音楽性に深く傾倒していた白人の敏腕音楽プロデューサー、ジョン・ハモンドは、スイングを通して黒人の他の音楽ジャンルも社会的に認知させようと一大イベントを企画したのです。
ブルース、ジャズ、ゴスペルなど様々な黒人音楽を集めた巨大なコンサートを、音楽の殿堂、カーネギー・ホールで開くことで、全世界に紹介にしたのです。もちろんそこにはブギウギも含まれていて、保守的なこのホールで黒人がメインで演奏する、というのは史上初の出来事でした。
イベントは大成功に終わり、とくにブギウギはアンコールの拍手が鳴りやまないほどの反響だったそうです。翌日の新聞はこぞって「アメリカの隠れた民族芸術」としてブギウギを取り上げました。
この日を境に、ブギウギは黒人地区だけの音楽ではなく、世界のメジャー音楽となりました。またこのコンサートは、アメリカに定住していたドイツ人のアルフレッド・ライオンを感動させ、ジャズレーベルの「ブルーノート・レーベル」を設立するきっかけにもなりました。その後、ブギウギはピアノ演奏だけでなく、ギターなどでも演奏されるようになり、スイングやロックなどにも取り入れられていったのです。