「堕落は快楽の薬味」マルキ・ド・サドは性に溺れた怪物か、はたまた哲学者だったのか?
何気ない一日に思えるような日が、世界のどこかでは特別な記念日だったり、大切な一日だったりするものです。
それを知ることが、もしかしたら何かの役に立つかもしれない。何かを始めるきっかけを与えてくれるかもしれない……。
アナタの何気ない今日という一日に、新しい意味や価値を与えてくれる。そんな世界のどこかの「今日」を探訪してみませんか?
マルキ・ド・サドが生まれた日
言うまでもなく、性に関する正常・異常の判断は、社会的・文化的背景によるところが大きかったり、個人差によるところもありますが、性欲に対して量的または質的な異常があることを指す言葉に「異常性欲」という表現があります。
この異常性欲を19世紀オーストリアの精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングは、「フェティシズム」「同性愛」「マゾヒズム」そして「サディズム」の4つに分類しました。
そのひとつ「サディズム」についてが今朝のテーマ。
サディズムとは、相手に身体的虐待を与えたり、精神的苦痛を与えることによって性的快楽や興奮を味わう性的嗜好のひとつ。
このサディズムという言葉の語源となった人物がいます。フランス革命期を生きた貴族であり小説家のマルキ・ド・サド(1740-1814)。今日6月2日は、サドの誕生日です。
74年の生涯のうち、30年間近くを監獄や牢獄、精神病院で過ごしたサド。世に残した作品のほとんどは獄中で書かれたもので、しばらくは正当に評価されるものではありませんでした。
作品は自身の精神状態を表すように、レイプや拷問、性的恐怖を連想させる暴力的なポルノグラフィーを多く含んだものが多く、その淫猥にして残忍な描写から、19世紀では検閲対象として禁書扱いされ、ごく一部の人しか読むことができなかったんだとか。
サドの性的快楽は、現代の感覚からしても異常と思えるもの。物乞いの未亡人を騙して拷問したり、娼館で乱行中に娼婦に媚薬を飲ませたり、子どもを監禁したり……。
それらを罪として裁かれ、生涯の半分近くを獄中で過ごすこととなるサドでしたが、秘めたる情熱の塊は、過激な描写の書作となって爆発していきました。
「堕落した発想の持ち主」と、かのナポレオン・ボナパルトに言わしめた、執拗なまでのサドの性的嗜好とは、いったいなんだったのでしょう?
道徳・宗教・法律、そのどれからも制約を受けることなく、哲学者の究極の自由と個人の肉体的快楽を追求することに情熱を燃やしたサド。彼の思想がシュルレアリストらによって高く評価されるようになったのは、ほんの50年ほど前のことなんですね。
そして2017年、フランス政府はサドの作品群を「国宝」として認定しました。
サディズムという概念を生み出すきっかけにもなったサドは、ただの性的異常者(ざっくり言えば変態)だったのか、はたまた性を解放する哲学者だったのか?
彼の遺した言葉から、あなたは何を感じるでしょう。
堕落は快楽の薬味。堕落がなければ快楽もまた瑞々しさを失ってしまう。そもそも限度を越さない快楽など、快楽のうちに入るのだろうか。
悪徳こそわれわれ人間に固有のもの。つねに自然の第一法則なのであって、それに比べればどんな美徳だって利己主義的なものでしかなく、分析してみればじつは美徳そのものが悪徳。要するに、人間におけるいっさいは悪徳なのだ。
快楽とは、苦痛を水で薄めたようなものである。