2016年、訪日外国人旅行客が2,000万人を越え、日本からも多くのひとが、国内外へ旅立っています。現代の私たちにとって当たり前のようになってきた空の旅が、どんな風にはじまったか知っていますか?
空の旅の歴史は、戦後初の航空会社・日本航空(JAL)の歴史とともにありました。全4問のクイズ、いくつ答えられるかな?
Q1. いまや旅客機には欠かせない存在の
キャビンアテンダント。
日本に登場した当時の呼び名は?
答え:エアガール
第二次世界大戦後、あらゆる航空活動を禁止されていた日本で国内運送事業が再開されたのは1951年のこと。戦後初の航空会社となる日本航空が設立され、同時に日本初のキャビンアテンダントが誕生しました。
当時「エアガール」と呼ばれていたこの職業は世の女性たちの憧れの的。応募人数は1,300人以上にものぼりましたが、第1期生として採用されたのはたった15人だけでした。エアガールへの道は、倍率86倍もの狭き門だったんです。
キャビンアテンダントといえば世相を反映した制服の歴史も興味深いもの。日本航空が最初に採用したのは、ひざ下15センチのスカートに色はシルバーグレーの制服でした。その後何度かマイナーチェンジを繰り返したのち、1970年のジャンボ機就航の際に、世界的デザイナーである森英恵氏が新たな制服のデザインを考案。当時流行していたミニスカートを取り入れた画期的なデザインが、大きな話題となりました。
Q2. 戦後初めて就航した
国内線の乗客は何人?
答え:36人と1匹
ちょっとひっかけ問題でしたね。
戦後初めて国内線が就航したのは1951年10月25日のこと。機材はマーチン202、羽田空港を出発し伊丹空港を経由して福岡空港に向かうという航路でした。この記念すべき国内線第一便の乗客は、報道陣を含む36人と“1匹”。実は大阪にもらわれていくフォックステリアの幼犬が乗り合わせていたんですって。
Q3. 戦後初の国際線の行き先はサンフランシスコ。
さて、その当時の価格は次のうちどれ?
①約24万円 ②約42万円 ③約240万円
答え:②約42万円
日本で国際線の運航が再開されたのは、1954年2月2日のことでした。当時の国際線運賃は往復で1,170ドル、日本円にして421,200円だったそう。
昭和25年の1,000円は現在の約8,000円の価値だった(※)というデータがあるので、現在の価格に換算すると、その額なんと300万円超え!どれだけ高価な旅行だったか、想像もつかないですね。
航路は東京・羽田発、アメリカ・サンフランシスコ着。出発当日、羽田空港は大変な熱気につつまれていたそう。搭乗アナウンスでは乗客一人ひとりの名前が呼ばれ、そのたびに拍手や歓声が起こりました。ブラスバンドの演奏の中、出発した第一便は、給油のためウエーキ島とホノルルを経由した後、31時間20分かけてサンフランシスコに到着。太平洋横断という、当時の日本にとっては画期的な大事を成し遂げました。
Q4. 1964年当時の国際線ファーストクラスは
今では考えられない仕様でした。
さて、どんな仕様?
なんと、お座敷仕様!
1964年といえばそう、最初の東京オリンピックが開催された年です。世界中からオリンピックを観戦するために訪れる観光客を迎え入れるために、都市をあげておもてなしの整備がなされたことは、誰もが知るところですよね。
その当時の国際線ファーストクラスの様子が、先ほどの写真です。飛行機の中とは思えない広さのお座敷風の空間には日本画が飾られ、よく見ると障子まで誂えられていますね。メニューにはお寿司や伊勢海老が並んでいたというのだから、とにかく豪華。
今のファーストクラスも端正な空間に様々な趣向が凝らされていますが、50年以上も前の日本航空のおもてなしの姿には、とてつもない心意気を感じますね。
ちょっとした知識で、旅がもっと楽しくなるかも?
戦後初の航空会社、日本航空が設立されてから66年。国際線運賃の高価さや、万が一に備えた射撃訓練など、現在では想像できないような歴史を歩んできていたんですね。
今回ご紹介した知識はまだほんの一部。飛行機に乗って旅に出るときは、その歴史に少し意識を向けてみてはいかがでしょうか。羽田空港の近くには、予約が取りづらいという噂の『JAL SKY MUSEUM』もありますよ。実際の格納庫も見学できるミュージアムに、足を運んでみるのもいいかもしれませんね。