「Farm to Table」アメリカ料理の概念を変えた男
すべては、ビアードからはじまったの──。
これは、アメリカで最も有名な女性料理家と称されたジュリア・チャイルド(2004年没)が生前遺した言葉。
アメリカ料理界の発展に大きく寄与したジェームズ・ビアードですが、私たち日本人だけでなく、当のアメリカ人たちも、その実あまり彼のことを知らないんだとか。ところが、聞けば「ローカル食材」や「生産者の顔が見えるメニュー」をファストフード大国に根付かせた人物というじゃありませんか。
いま注目を集める、アメリカン・スローフードの原点がここに。「TastingTable」で紹介されたSari Kamin氏の記事を紹介します。
ローカルフードの提唱者
ジェームズ・ビアード
食を愛する人ならば、ビアードの名前をよく知っているはずです。シェフや美食家たちは、おいしい料理にありつくため、レストラン「ジェームズ・ビアード・ハウス」に殺到するのですから。
それだけアメリカの食に多大な影響を与えた人物。なのに、彼自身のことや、アメリカの外食産業やフードシステムに対する彼の多大なる功績を、よく知る人はほとんどいないのはなぜでしょう。
いわゆる「ファーム トゥ テーブル(農場から食卓へ)」の動きが、シェフやグルマンディたちに浸透したのは、最近のことだと思っていませんか?実のところ、こうした食通が注目するずっと前から、ビアードはローカルフードの熱心な支持者だったのです。
当時、全米のほとんどのシェフが新たな発想を求め、フランスに目を向けていた時代にビアードはオレゴン州の海岸沿いで、幼少の頃から慣れ親しんできた、シーフードや、きのこ、ベリーを高く評価していました。
信念にしたがい、
「食のよろこび」に目覚めていく
食と料理に関する知識をビアードに与えたのは、母メアリー・エリザベス・ジョーンズでした。イギリスからの移民であったジョーンズは、息子を市場へと連れて行き、とびきり新鮮な野菜や、おいしい鶏肉を見分けるための方法を、日々の生活のなかから教えていったそうです。
主婦としての役割を果たす代わりに、彼女は今でいうところの家飲みやパーティーにおける料理で評判を得ていたというのだから、「血は争えない」ということなのでしょう。
そんな母メアリーのように、ビアードもまた、自分の考えに正直に生きていったようです。同性愛がまだ違法とされていた時代に、彼は自分がゲイであることを隠そうとはしませんでした。
残念なことに、その勇敢さがアダとなり、ビアードはリード大学から除籍処分を受けてしまいます。それでも、最終的にはヨーロッパへと向かい、彼はそこで芸術や、すばらしい料理の世界に明け暮れていきました。
妻のオペラ鑑賞に同伴したくない夫たちの代役として、ビアードはほぼ毎晩のように劇場へと足を運びました。アメリカに戻ったとき、彼はまた役者としての成功を目指すようになり、NY、ポートランド、シアトルの劇場に立ち、セシル・B・デミル監督のサイレント映画『キング・オブ・キングス』で小さな役を勝ち取ることに。
“女性の分野”への進出
俳優として十分な収入が得られなくなったとき、ビアードはきっぱりとその道をあきらめ、サービス事業に転身、オードブルを取り扱うケータリングビジネスを始めました。それが1937年のこと。
それから彼に何が起こったかは、みなさんもご存知のはず。母直伝の自家製マヨネーズが入ったシンプルなティーサンド「オニオンとチャイブのブリオッシュ」は、現在もビアードの代名詞ですからね。
まだ男性が料理本を出すことが珍しかった時代に、『オードブル&カナッペ』を上梓。当時の料理本は、女性が支配する分野で、男性がレシピ本を出すというのは、かなりレアだった、とはシェフ兼フードライターのルース・ライシル。
それでもビアードはその後も執筆活動を続け、彼のキャリアを通して計20冊以上の本を遺しました。そして1946年、自身初の料理ショー番組『I Love to Eat』の司会を務めることに。
「生産者の顔が見えるメニュー」は、
ビアードのアイデアから生まれた
新たな境地を開拓したものの、ビアードに対する世間の評価は、まだ低空飛行。ここから数十年後、前述の友人ジュリア・チャイルドとともにゲストとして頻繁にテレビ出演を果たすようになるのです。
一例を挙げれば、カリフォルニア州パークレーのレストラン「シェパニーズ」。経営者のアリス・ウォーターズを有名にして、店をカリフォルニアの名物にしたのは、ベアーズのレストランレビューでした。
「フォーシーズンズ」が1959年にNYに初オープンしたとき、この店にはビアードの発想が多分に取り入れられていました。「季節とともに変化するメニュー」は、他でもない彼のアイデア。そして、四季を意味する店名もここから。
今では珍しくない、契約農家や生産者と協力体制も、素材の産地を表記したメニューも、すべてここから始まったもの。アメリカの大半の食卓がミートローフやポテトで占領されていた時代に、まったく新しいコンセプトのレストラン誕生に、彼が大きく貢献していたのです。
「おいしい!」を
すべての人の元へ
著者や講師としての影響力もさることながら、最も大きなインパクトを世に生み出したのは、ビアードの人道支援活動にあります。
友人に料理を振るまうことを、至上の喜びとする、稀代のエンターテイナーである彼は、病気で元気の出ないお年寄りたちが最適な食事をとれていないことを知り、深い悲しみを覚えたそう。
すると彼は、ニューヨーク・タイムズ誌の料理評論家で、かつての教え子でもあるガエル・グリーンとともに、食事の提供サービスを行うNPO団体「シティミールズ・オン・ホイールズ」を創設(1981年)。寄付で集めた活動資金はわずか35,000ドル。それら35年あまり、現在では年間1,900万ドルの寄付が集まるまでに規模を拡大させています。
アメリカはいつまでも
ファストフードの国じゃない
現在、「ジェームズ・ビアード・ハウス」で料理をすることは、あらゆる若手シェフたちの通過儀礼のようなもの。それは地域と結びつき、ローカルフードを知るためのチャンスでもあるからです。
そして何よりも、土地に根付いた食材をていねいに調理すること。それはアメリカ料理の生みの親ビアード自身の多大なる功績を讃えるための、絶好の機会にもなるのだから。