なぜ、直感に従って生きるべきなのか?──ホストから宮司へ導かれた彼の答え
やりたいことがたくさんあったはずなのに、
時間がたつほど『やらない理由』を集めてしまうようになる。
僕は意志が強いほうではないから、
そうなってしまうともう動けないんですよね。
だから、『やらない理由』が生まれる前に動き出すことにしているんです──。
“直感に従う生き方”を、
貫き通した40年
直感は、神様がカンニングペーパーをチラ見せしてくれた状態だと思うんです。答えが見えるのは一瞬だけ。
そう語るのは、玉置 彰彦(たまき あきひこ)さん。
20歳の時に歌舞伎町ホストとして活躍し、その後は旅人になり世界中を旅する10年間。旅中に違和感を抱き続けてきたのは、「なぜ海外で、自国のことを誇る日本人が少ないのだろう?」ということだった。そもそも、日本とはどういう国なのかを、心底理解出来ているのだろうか?
文化や思想、日本という国をつくっている“根幹の部分”を、自分の言葉で語れるようになりたい。そんな想いが生まれた瞬間をキャッチして、彼は帰国してから神道にまつわる仕事に就くことを決意した。明治神宮で奉職に就き10年勤めた後、2年前から北海道ニセコ町に移り、現在は狩太神社の宮司を勤めている。
直感を頼りに、<ホストから旅人、そして神主>の道を歩んで「自由奔放と言われることも多いけれど、紆余曲折の連続ばかりだった」と言う彼が、人生に迷いを抱える20代に向けて、こんな話を聞かせてくれた。
職を変えても生き方を変えても
「自由になる」わけじゃない
会社員が窮屈だから、パン屋になる。東京が疲れるから、北海道に行く。そうすることで、『自由』を手に入れられるかというと、実はそうでもない。
何をどう変えても、責任や義務は付きまとう。しがらみがなくなるのではなくて、責任や自由の形が変わるだけ。
「神社に手を合わせても願いが叶わないから、もう来ない」って声を聞くことがあるんです。厄年も同じで、「お祓いしたのに、全然良い1年じゃなかったぞ」って。
それと似ているなと思っていて、手を合わせて神様にお祈りするだけでどんな希望も叶えられる、なんてことはやっぱりないんです。
厄年とは、
自分の“役まわり”を考える年
厄年の“やく”は、災いのことだとばかり思ってしまうけれど、“役”だと考えてみてほしいんです。
厄年は、神様から役職をもらっているんだと思います。人は生きていると、どうしても自分本位に物事を考えてしまいがち。だからこの1年は、社会がもっとより良くなるために、周りの人がもっと幸せになるために、考え抜いて生きてみる。
この世界における、自分の役割ってなんだろう?って改めて向き合って、役まわりを見つける機会を与えられているのだと。
神社に来て、お参りをすることがなぜ大切なのかと言うと、神様の前で目を閉じて、手を合わせることで、今の自分が望んでいること、感謝すべきことと向き合う時間になるからだと思うんです。
まずこの場に立って、手を合わせられていることに、感謝してみる。毎日、いいことも悪いこともあって、苦しい時期かもしれないけれど、まずは何事にも感謝する気持ちをつくることができる。
そういう柔らかい心で、謙虚に、過ごしていける人には自然と、“運”がついてくるものです。祈ることは、「感謝すること」。
神社というのは、自分に気付きを与えてくれる場所で、鏡のように今の自分を映してくれる存在が、神様というものだと思っています。
決断するってことは、
「なにを断つか」を決めること。
自分の心とできる限りで向き合った後に、今の自分や属している環境を何か変えなくてはいけないと思うのであれば、まずは『なにを断つか』を決めましょう。
時間は誰にとっても有限で、今この時に自分にしかできない役まわりを掴み取る自分でいるために。神様が見せてくれた一瞬の答えを、逃さない準備をするということは、決断するってこと。
自分自身で決めて動くことの、繰り返しを恐れないこと。
心と向き合いつづけることも、感謝しつづけることも、とても難しい。だから人は手を合わせて祈る、つまり、神様を通して自分をみる時間が必要なのだと思うんです。