誰にも言えないけれど今でも思い出す、数年前のあの朝のキスを

駅から家までの長い一本道。普段、歩きながらよくいろいろな事を考えているけれど、特に夏の“におい”がしはじめると、いつも同じ記憶が頭の中をめぐる。

それは、以前、この道を並んで歩いた人との日々。

きっと、誰にでもいるはず。思い出すとチクリと心が痛む、今はもう会わないけれど、本当に大好きだった人が。

私がその人と出会ったのは、社会人になったばかりの春。大学の友人が企画した飲み会に参加した時だった。出入り口で目が合い、その後偶然となり同士の席に座った。

彼は、カナダでワーホリをしている彼女の話をしていた。最初は、なかば上の空だった私も、だんだん横で酔っ払ってきた他の人に絡まれまいと、途中から彼の方に体を向けて耳を傾けた。

その日、私は慣れない雰囲気もあってか、店を出ると気分が悪くなり、おなじく2次会の参加を断った彼に送ってもらうこととなった。

© iStock.com/Thomas Northcut

帰り道、時々気持ち悪くなって立ち止まる私に合わせて、彼もゆっくり歩いてくれた。悪いなと思いながらも、気をつかって一緒にいてくれる彼の優しさが素直に嬉しかった。

家までの道のりで、なにを話したかはあまり覚えていない。ただ、「シャンプー良いにおいだね」と言われ、使っているブランドを言い当てられたことは覚えている。私が転びそうになって、支えてくれた時のことだった。

そのシャンプーは、市販で買えるどこにでもあるもので、甘くさっぱりした香りがお気に入り。無くなっては買い足して、使い続けていたのだ。

当てられたことにビックリした私は、「どうしてわかったの?」と聞くと「彼女も使ってるから」という返事がかえってきた。私は「へ〜」と興味がないフリをしたけれど、心がチクリと痛んだ。

© iStock.com/demaerre

私たちは、時々ふたりで飲みにでかけるようになった。彼が私の家に泊まることも。

初めはなんとなく罪悪感を感じていた私も、何度か回数を重ねるうちに、どこか当たり前のようになっていった。彼も、私との会話の中で、だんだん彼女の話をしなくなっていた。「彼女と最近どう?」と、本当は聞きたかったけれど、聞けない自分がいた。

でも、ある日をさかいに連絡が途絶えた。理由が思い浮かばなかった私は、なにか気に触ることでも言っただろうか?などと不安になっていた。

数週間後、やっと彼から連絡がきた。ちょうど仕事を終えたある夜だった。

「今夜空いてる?」

まるで何事もなかったかのように聞く彼に、すこしイラっとしつつ、会えることが嬉しくて私はひとつ返事でご飯を食べにいく約束をした。

久々の彼は、どこか心ここにあらずという感じだった。一緒に寝ることにしたけれど、疲れていたのか彼はすぐ眠りについた。

すぐに寝つけなかった私は、外から聞こえるスズムシの鳴き声を聞きながら、暗い部屋でひとり天井を見上げていた。

季節はもう夏になっていた。

そういえば、初めて彼と話した日、彼女の帰国時期がちょうど今頃だと言っていたな。明日、聞いてみようかな──。

そう思い、私の方を向いて丸くなる彼の髪の毛に指を通した。

あっ……。

髪の毛から漂ってきたのは、私のお気に入りのシャンプーの香り。彼は今日、うちでシャワーをあびていない。

『彼女も使ってるから』

出会った日の夜、そう言われたことを思い出した。

彼女はもう日本に帰ってきていて、きっと2人はうまくやっているんだろう……。

© iStock.com/MichaelLanghoff

次の日の朝、彼がベッドから起きるのがわかった。私は寝たフリをすることにした。目があったら、泣いてしまいそうだったから。

すると、彼は寝たフリの私にキスをした。いつもより少しだけ長くて、丁寧で、どこかよそよそしい。

きっと彼は、ココにはもう戻らない。

その日、ひとりになった私は、いつもより広く感じたその部屋でひとり泣いた。

その後、私は彼と会うことはなかった。今頃、どこで何をしているのだろう。今でも時々、あの日々を思い出す。

あのシャンプーは今でも使っている。悲しい記憶を悲しいままにしたくなかったから。それに、私は本気で誰かを好きになった事実を決して後悔していない。例え、夏の始まりにチクリと胸が傷んで切なくなったとしても。

Top photo: © iStock.com/jeffbergen
TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。