事実は自分のいいように解釈してOK!未来を切り拓く「5つのヒント」
原田まりる/Mariru Harada哲学ナビゲーター・コラムニスト。1985年生まれ。大学在学中より芸能活動を行い、レースクイーン・オブ・ザ・イヤー2005グランプリを受賞する。現在、高校時代より学んでいた「哲学」の教えを実生活に生かす「原田まりるの哲学カフェ」を主催。
私は子どものときからずっと、息苦しさと生きにくさを感じて生きてきた。そんなときに出会ったのが哲学書だ。哲学は、真っ暗な世界に棲息することしかできなかった私の人生に、微かな光を注ぎ込み、新しい色を吹き込んでくれた。ここからは、「未来を切り開く力」を紹介していきたい。光と色が、どうかあなたの世界にも届きますように。人生、捨てたものじゃない。
01.
事実をそのまま受け取らず
いいように「解釈」する
ドイツの哲学者アルトゥル・ショーペンハウアーは、「人間の幸福の主な源泉は自身の内部に発生する」と説いている。芸術や自然、人との触れあいの中で「キレイだなあ」「楽しいなあ」と感じるのは、外側からの刺激を直接受けているものではない。幸福というのは、自分自身の内側から湧き上がる感性なのだ。自然や芸術の美しさに感動したところで、それは一時的に感情を左右する刺激でしかない。永続的な幸せを得ようとするならば、自身の感性を豊かなものとして保つほかないということである。
私たちは「事実」をそのまま受け取るのではなく、自分の感性で「事実がどのようなものか解釈」してから「感情」を生みだしている。
例えば財布を落としてしまったとしよう。「財布を落としてしまった」という事実は悲しい出来事であるが、「最悪だ…」とどん底まで落ち込んだ気分になってしまうか、「まぁ、しょうがないか」とすぐに立ち直るかは、自身の解釈によって違ってくる。
02.
他人からの「評価」を
期待するのはNG!
人一倍得意であるにもかかわらず、上司とうまが合わず仕事を任されない。このように自分の努力や能力が活躍に結びつかない場合、人はその不条理な状況に不満を感じてしまう生き物である。「自分が不当な扱いを受けているように感じる」のは、実はナルシストの発想である。「自分はできるのに」という自信が潜んでいる証拠なのだ。しかし、他にも大きな原因がある。それは「周囲の評価に期待している」ことである。
「自分が納得できるかどうか」ではなく「人に評価されるかどうか」ばかりに重きを置きすぎた場合、取らぬ狸の皮算用であるにもかかわらず「他人からの賞賛」を過度に期待してしまう。そして、結果として期待していたような「評価」が返ってこなかった場合に、憎しみや苦しみに変わってしまうのである。
03.
愛される目的の恋愛は、
ただの「執着」に過ぎない
他人からの評価に重点を置き、他人からの評価がどうであるかを「結果」として捉えるという発想が、そもそも間違っているとルキウス・アンナエウス・セネカは唱えている。セネカはスペインで裕福な騎士の家に生まれた哲学者。他人があなたをどう思うか?他人があなたをどう評価するか?これらは我々のコントロールが及ぶ範疇ではなく、そもそも我々に期待する権利はないのだ。つまり、見返りを求めるために自分が何を行うかを決めているようでは、思うような「結果」を得ることはできないということ。
かのエーリヒ・フロムは著書の中で「愛すること」と「愛されること」はまったく違うと述べている。そして「愛されること」よりも「愛すること」が重要であるとしている。愛されることを目的とした愛、それはただの「執着」だということ。
04.
「富」「名誉」「快楽」…
不幸になりたくなければ
欲望を捨てること
大切なものを天秤にかけ、どちらを選び、どちらを捨てるべきかという究極の選択は、人生の中で何度か訪れる。そして「どちらを選ぶか」で悩んでしまう理由の中には、不純な誘惑が絡んでいる場合が多く存在する。不純な欲望とは「富」「名誉」「快楽」。この3つが頭の中にちらつくので、我々は自分の意志のほかに「どちらのほうが得であるか」と天秤にかけ、悩んでしまうのだ。
たとえば「高収入だけど嫌な仕事、お金の保証はないが好きな仕事、どっちをとるか?」といった究極の選択の中で、自分にとっての本当の幸せを見極めようとする際に、「富」「名誉」「快楽」という観点が入り込んできて、判断に影響を与えてしまう。これらを得ることが、自分にとっての本当の幸せである人にとっては、それを重視して決めればいい。けれど、本当の幸せが実は別のことにある人にとっては、心を乱してしまう要因となってしまうのだ。
自分にとっての幸せが何であるかが見えなくなってしまう原因は「不幸」によってではなく、「自らの欲望」によってもたらされる場合がある。「欲望」は向上心を生む原動力となるものでもあると同時に、幸せをかき消してしまう毒にもなり得ることは覚えておきたい。
05.
「付加価値」を捨てて
“素の自分”を受け入れる
高校のとき、好きな先輩と初体験を済ませたが、つき合う関係には至れなかった。先輩には別に彼女がおり、私はなんとなく手を出されただけだったのだ。先輩の彼女は、京都の有名なお嬢様学校に通う女生徒だった。私はそのとき感じた。「自分には、人に自慢したくなるような宣伝文句が何もない」ということを。
その後、私は「付加価値」をつけるべく、いろいろと行動を開始した。ファッション誌の読者モデルになったり、高級クラブのホステスになったり、レースクイーンやキャンペーンガールになったり。自慢話に聞こえるかもしれないが、実際、私は人に自慢できるものを手に入れたかったのだ。
しかし、納得のいく「付加価値」を手に入れたにもかかわらず、心に抱いていた不安や心配は消えることなく、心を曇らせ続けた。私は「付加価値」を自分の存在意義の中心に置きすぎていたのだ。「付加価値」を取り除いた状態の「ありのままの自分」に対する自信は「付加価値」が高まれば高まるほど、どんどん失われていった。その結果、「素の自分」に対する劣等感は深いものとなっていき、私は恋人にすっぴんを見せることができなかった。外泊することになってもメイクだけは絶対落とさずに、つくり上げた虚像の自分のまま恋人と接することで安心を覚えていたのだ。
あれから哲学に出会った私は、だんだんと素の自分を受け入れられるようになっていった。もし「付加価値」にこだわり続けていたら、今の幸せはなかっただろう。
『私の体を鞭打つ言葉』
コンテンツ提供元:サンマーク出版