大都市の地下。19世紀の洞窟トンネルから生まれる熟成チーズ(ブルックリン)
急速に変化する地上に対し、その地下というのは、驚くほど変わらずにいる。新陳代謝の早い都会に長く住んでいるからだろうか。「変わらないもの」に、より強い興味を覚える。
ひょんなことから、近所のアパートの地下に「大量のチーズが静かに眠っている」という噂が耳に入った。「アフィナージュ」というチーズ作りの熟成工程。彼らは自宅アパートの地下にある、たまたま見つけた19世紀の洞窟トンネルを利用して、ローカルチーズの熟成を行っているのだという。
発見した地下洞窟。
「ただ貸し出して副収入」じゃつまらない。
アーティスト夫妻が、ブルックリンのクラウンハイツ地区の建物を購入したのは、2001年のこと。
「リノベートして、貸アパートにしよう」。
今でこそ、ヒップな若者が集まる人気エリアとして眩い輝きを放つが、当時はただの寂しい倉庫街だった。
不動産屋は彼らにこう言った。「そういえば、この物件、地下に19世紀に作られたトンネルがあるんですよ」。ハシゴを使って10メートルほど地下に降り、懐中電灯を照らしてみると、そこには年季の入ったレンガの石畳の上に、アーチ型の長い空洞が広がっていた。
調べてみると、1850年代に作られた地下トンネルで、1916年まではナッソー・ブリュワリーというビール製造所として使われていたんだとか。だが、ブリュワリーとして活躍したあとは、過去の栄光を胸に、ひっそりと寂しい余生を送ってきたらしい。
すぐさま芽生えた「このスペースを何かに利用したい」という想い。「駐車場は?」「ストレージにするのは?」はたまた、冷涼な環境を生かして「ワイン貯蔵庫として、レストランやバーに貸し出すのはどう?」
レンタルという形式をとれば、低コストで手間のかかる管理をせずに確実な収入が見込める。しかし、「ただお金を儲ける、だけでは面白くないと思ってね」と、夫のBenton(ベントン)。夫妻は「自分たちで何かを生み出す感覚を欲していた」と振り返る。
都会の地下2階で育てる「チーズ」
そんな時に、「ヨーロッパの一部の都市では、アフィナージュ(チーズを熟成させること)を専門とするチーズビジネスが盛んだ」という話を聞き、惹かれるものがあったという。
2010年前後といえばちょうど、ニューヨーク、特にブルックリンで、地産地消・健康志向・ものづくりが高まりを見せはじめていた頃。漠然としたワクワクに背中を押されたベントンは、早速フランスへ飛び、現地の熟成職人(アフィヌール)を訪ねた。
放牧、そして搾乳から始まるチーズ作りは郊外の酪農で、熟成工程はマーケットが大きい都会で、という分業スタイル。夫婦が営むチーズ会社『Crown Finish Cave(クラウン・フィニッシュ・ケーブ)』は、「熟成させて食べごろになったら、シティ内のレストランや小売店へ直送する」という、チーズ作り工程の後半部分を請け負う。
地下10メートルというと、だいたい地下2階といったところだろうか。カン、カン、カンッと螺旋階段を下るにつれ、ひんやりとした湿気を含んだ空気が、肌にまとわりつく。
約22,000ポンド(約9,979キログラム)のチーズが眠る洞窟部屋。
「年間を通して、室温は10-12℃、湿度は85-90%に保ち、常に空気を循環させながら厳しく管理しています」。もともとチーズ熟成に適していた冷涼な環境を、テクノロジーを使って完璧にしているのだという。
ニューヨーク近郊の酪農から届いた、生後1〜14日のチーズ。私たちには「それを美味しく育てる義務がある」と、日々の環境管理は真剣勝負。「生き物を預かっている、という責任感を覚える」という言葉は、決して大げさではない。
静かに眠るチーズたちの部屋をゆっくり徘徊してみると、菌という肉眼では見ることのできないものが、紛れもなく「生き物である」ということを痛感させられる。「これはまだ熟成1週間のもの。こっちはさらに2週間置いたもの。これは牛乳、それはヤギ乳」。それぞれが放つ匂いは、まさに”十人十色”。
魅惑のプライム熟成チーズをクリエイト
チーズ作りと聞くと、緑の草の生い茂る郊外の牧場をイメージするが、熟成パートのみであればむしろ、ニーズの大きい都会の方が適しているという。都会のレストランや小売店と直接やりとりができ、新たなコネクションも広げやすい。
また、美食家たちを魅了するニューヨークのトップシェフたちのニーズにも適している。チーズの熟成工程を自分の目で確認できるトレイサビリティーはもちろん、貪欲なシェフたちのより細かなリクエストに応じた、他にはないオリジナルのチーズ熟成を可能にしているのだそう。
「たとえば、熟成10日間と2週間、3週間では、同じ種類のチーズでもまったく味が異なります。この棚は、○○レストラン、あっちは△△レストラン専用…」と、出てくるレストランは一流人気店ばかり。
これは、と彼が指を刺した小さな棚には、深緑色の小ぶりのチーズが並ぶ。「これは某スターシェフとの共作で、オイル加工に工夫をした、まだ実験中のチーズなんだ」と、新たな創造品に胸を膨らませる。
「何に人生をかけたいか」。
アーティストからチーズ熟成職人へ
もともとは彫刻家だったベントン。それまでチーズ作りとは無縁だっただけに、「確かな勝算があったわけではなかった」と明かす。
唯一確かだったのは、職人や酪農家、料理人たちとの交流を深めて知る新たな世界に強く魅了され、人生をかけてみたいと思えたこと。「この人たちと一緒に仕事ができたら、もっと刺激的な生活になるだろうなと感じたんだ」。
チーズ作りは五感の勝負。日々複数のチーズを作っていても、それぞれのレシピを「理解した」と言えるには、まだまだ時間が必要。経験を積むしかない。
長い歴史のあるチーズ作り。人から人へ、脈々と受け継がれた伝統に触れ、思いがけず開眼したブルックリンの夫婦。ところで、これは運命だったのか、偶然の重なり合いなのか、はたまた選択によって作り出された結果なのか。
そもそも、購入した建物に地下トンネルという副産物がついてこなければ、チーズ熟成に携わることもなかったのだ。
「不思議よね。この建物を購入した当初は、人が住めるようにリノベートして貸し出すことしか考えてなかったんだから。まさか、旦那がチーズ熟成職人になるなんて思ってもなかったわ」と、妻Susan(スーザン)は眼を細めた。
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