日本地図から消された島に、今も残る「戦争の傷跡」。
約700羽の野生のうさぎが生息していることから、数年前に"うさぎ島"として話題になった広島県大久野島。温泉、海水浴、キャンプなども楽しめるという、人気の観光スポットになっている。
けれど私が生まれる約10年前、1984年頃までは、ほとんどの人が島の存在を知らなかったらしい。なぜなら、「戦争の負の遺産」がねむるこの島は、長いあいだ存在自体が隠されてきたから……。
日本地図から"消された"島
テレビやネットで取り上げられることが増え、知っている人も多いと思うけれど、大久野島では1929年から終戦(一説によると1944年)まで、日本人によって化学兵器「毒ガス」が製造されていた。
当時、国際法で禁止されていたため製造は極秘で行われ、島自体が日本地図からも消されていたらしい。ほとんどの人が約30年前までこの島の存在を知らなかった理由は、ここにある。
まるで過去を焼き消すかのように、後に工場は火炎放射器で丸焦げにされたよう。毒ガスは除去され、機械も全て処分され、ドス黒いコンクリートだけが今も島に残っている。深く染み付いた傷跡をゆっくり癒しながら、平和を訴え続けているみたいに。
1990年代に取り壊す計画が持ち上がったが、平和学習に訪れていた中学生らが保存のための署名活動をはじめ、結果「修復はしないけれど、残しておく(自然風化を待つ)」ということになったそうだ。
「加害者としての責任も、
語り継がなければならない」
大久野島西沖合いから見た毒ガス工場の写真 / ©︎まちづくり推進課
毒ガスの製造に関わっていた人たちは、今でも歴史を残さなくてはいけない。責任を一手に背負い込み、日本軍の過去を語り続ける人たちがいる。
「戦争で受けた苦しみを知る身だからこそ、加害者としての責任も語り継がなければならないのです」
これは、当時製造に関わっていた岡田黎子さんの言葉。子どもたちにも語り継いでいくために、大久野島の絵本を自費出版している。
当時のことを知るもうひとりの製造者である藤本安馬さんは、先の8月15日に放映された『綾瀬はるか「戦争」を聞く~地図から消された秘密の島~』で、「事実を語る人は少ない。だからこそ、私は本当のことを伝え続けなければいけない」、と語気を強めていた。
島の現状を知るために、<大久野島毒ガス資料館>について調べてみると、観光地として開発され始めたことにより、残っているのは砲台跡・発電場・毒ガス貯蔵庫など数少なくなってきていることがわかった。
大久野島について、竹原市まちづくり推進課にお話を伺うと、島のことを昔から知っている人たちは「足を運ぶ人が増えたのは嬉しいことだけれど、この場所で起こった歴史を残していかなければ」と、危機感を持っているようだ。老朽化を防ぐために修復したいという声も上がっているけれど、まだ実現するかはわかっていない。
いずれ、戦争を体験してきた人々はいなくなってしまう。そうして資料と建造物だけがこの国に残った時、彼らの後悔や祈りを、どれだけ伝え続けることができるだろう。微力ではあるけれど、記事にすることで今一度問い直すきっかけになれば、と思っています。