「ユニフォームを街着に」プロ野球の常識を変えたデザイナー・大岩Larry正志

正直、初めて見たときは、どうもしっくりこなかった。東京ヤクルトスワローズの黄緑の「特別ユニフォーム」のことだ。

でも、今は違う。

神宮球場が多くのファンで黄緑に染め上げられる光景は、もはやおなじみ。スタンドの青との掛け合わせがまた、なかなかどうしてカッコいい。赤紺白のトリコロールじゃない山田哲人もバレンティンもすっかりサマになってきた。

今や特別ユニフォームの着用はどの球団でも当たり前だが、このストリームの上流には気鋭のユニフォームデザイナーがいる。

「ムーブメントが起こる10年前から、ずっと準備してきた」

©Itaru Chiba

大岩Larry正志。日本ではおそらく彼ひとりだろう、スポーツユニフォームやチームロゴを専門とするデザイナーで、2008年の西武ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)を皮切りに、福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルス、そして東京ヤクルトスワローズの特別ユニフォームを手がけてきた。

その活躍はプロ野球だけに止まらず、カーリングやバスケットボール、ラグビーなど、競技の垣根を越えた多くのオファーが彼のもとに飛び込んでくる。

野球グッズが所狭しと並ぶ秘密基地のようなオフィスで、その理由に迫った。

©Itaru Chiba

──それにしてもスゴいオフィスですね。野球グッズだらけじゃないですか(笑)。

 

1989年、中学2年生のときにプロ野球にハマりました。少ないお小遣いをすべてプロ野球の雑誌に費やすような子どもでしたね。

一度のめり込むと、選手の記録や球団の歴史にも興味が湧いてきて、できるだけ多くの情報を記憶し始めました。おかげで、野球知識検定を満点で合格するほどになったわけですが(笑)。

 

──ホンモノの野球オタクですね!そんな少年が、どうしてプロ野球のユニフォームデザイナーに?

 

武蔵野美術大学を卒業後、フリーランスのデザイナーになったのですが、世の中にはかっこいいデザインを作る人がたくさんいました。だから、この世界で生きていくためには、自分にしかできないことを見つけなきゃいけないと考えていたんです。

当時は、野茂(英雄)さんがメジャーリーグに行き、イチローさんや新庄(剛志)さんがそれに続いていた時代。日本のTVや雑誌などでもメジャーリーグの露出が増えていたわけですが、試合の映像を見ていると老若男女みんながレプリカユニフォームを着ていたのに驚きました。

 

──今となっては日本でも当たり前ですが、その頃は違いましたよね。

 

当時の日本にはそうした文化がありませんでした。その理由を僕は「デザインの問題」と定義しました。向こうのユニフォームは街着として成立するほどかわいい。でも、日本はそこまでじゃない。その課題を解決するようなデザインができないかなと考えたのがスタートです。

でも、当時のプロ野球は僕みたいな若造がなにかをするまでもなく、十分にお客さんが入っている状態。特に変革が求められているわけでもありませんでした。

じゃあ、どうしたらいいんだろう?と。野球オタクとして相変わらず雑誌は買い続けていたし、デザインの知識もどんどん溜まっていく。

 

──だけど、実際にそれを発揮する場所がない。

 

そこで、少ない貯金を使ってギャラリーを借り、「こんなデザインだったらかわいいだろうな」という自主制作ユニフォームの個展を開いたんです。後にも先にもそんなことをやっている人間は僕以外にいないと思うんですけど。

それをきっかけに色々な人とつながることができ、まずは日本プロ野球名球会の仕事をやらせていただきました。

 

──自主制作ユニフォーム……熱しか感じないです。その名球会の仕事は、どういった内容のもの?

 

メンバーのTシャツを作るものです。名球会に昔からいらっしゃる方と最近入られた方とでは写真の劣化具合がまったく違うので、共通でイラストにしようという話でした。

 

──何もないところから、いきなり名球会。それはそれはテンションが上がったのでは?

 

もうめちゃくちゃ嬉しかったですよ。偉大な方ばかりなので、彼らの仕事ができるのはとてつもなくテンションが上がりました。

でも、それをきっかけに順調にいったかというとそうではありません。いいところまではいくのに、なかなかその先へいけないという状況が続いていました。

 

──どうやって突破口を見つけたのでしょう?

 

2007年のある日、僕がお世話になっている美容師さんから「紹介したい人がいる」と電話がかかってきました。聞けば、あるお客さんが転職して、翌年からライオンズの球団職員になるらしい。手土産として、選手が普段とは違うユニフォームを着てプレーするという企画を持っていきたいけれど、誰に頼んでいいかわからないと。

美容師さんは僕のことをよく知っているから「お客さんでいい人がいますよ」と紹介してくれました。翌日、担当者がオフィスにきてくれて依頼をされ、「ぜひよろしくお願いします」と食い気味で返事をしましたよ。何年も道を模索し続けて悩んでいたのに、たった数秒で話がまとまりましたね。

 

──すごい話ですね。自分がデザインしたユニフォームを着て選手がプレーしているのを見たときはたまらなかったでしょう?

 

今もそうですが、まるでオーナーになったような気持ちでした(笑)。でも、それを見て満足というよりも、ファンの方の着用率や球場との色のバランス、照明が当たったときの見え方など、次回に生かすためのポイントを冷静にチェックしていました。

 

──なるほど。自主制作を始めてからライオンズに声をかけてもらうまでは、どれくらい時間がかかった?

 

約5年です。そもそも当時って、ユニフォームはホームとビジターの2種類しかなかったんです。もちろん、それらのデザインは簡単には変えられない。僕ができることって、じつは何もなかったんです。

 

──5年も道が閉ざされていたら、自分なら諦めてしまいそうです……。それでも続けられたのはなぜ

 

それはもう好きだったとしか言えないですね。

 

──さすがに気持ちが折れそうになった時期はありますよね?

 

いや、ないですよ。「絶対やってやる!」みたいな感じで、どうやったら道が開けるかばかりを考えていました。

 

──それがすごい。当時は20代後半。なにかと周りと比較してしまい、焦りやすい時期だと思いますし。

 

確かにみんなから「できるわけない!」って言われてました。なんのために個展をやってるんだとか。ただ夢を追っている自己満に見えてたと思います。

 

──でも、好きでやって突き抜けてみせた。

 

今ではどの球団も特別ユニフォームを作ってファンを呼ぶことが当たり前になってるじゃないですか。僕はスポーツはもちろん、標識や商品パッケージも含めて「アメリカのデザイン」のすべてを研究して、どうやったら日本でもかわいいユニフォームを流行らせることができるかとずっと考えてきた。偉そうに言うつもりはまったくないですが、このムーブメントが起こる10年前から準備をしてきました。

 

──本当にそうですよね。

 

むしろ不思議なんですよ。日本にはプロ野球の歴史が80年以上もあるのに、ユニフォーム専門のデザイナーが誰ひとりいなかったことが。そして、アメリカにはスポーツ専門のデザイン事務所やスポーツ施設専門の設計事務所まであるのに、なぜ日本にはないのかが。だったら、僕がそういう存在になろうと思いました。

 

──そもそも、これまでユニフォームデザインは誰がやっていたんですか?

 

ずっとメーカー内部のデザイナーさんが手がけていたりしたのですが、ユニフォームをデザインすることについて日頃からどれだけ考えていたかは不明です。おそらく担当になって初めて向き合っているのではないかと。

でも、僕は仕事がなくても勝手に自腹でやってきましたし、ユニフォームのデザイン史を勉強してましたから(笑)。それくらいの愛情と検定で満点をとるくらいの知識、危険なまでの探究心を持ってやっている。

例えば、この野球ノートを見てください。毎試合の内容を文章で書いたり、新聞の切り抜きを貼ったりを15年以上やってるんです。あの試合の誰々の何号ホームランとか、大体は覚えてますよ。

©Itaru Chiba

もしかしたら、こういうことをやっている「野球オタク」の人は他にもいるかもしれません。でも、記者になろうとしてる人はいてもユニフォームデザイナーになろうとしてる人はいないと思うんですよね。

「手を加えているけれどシンプル。それが僕のデザインのウリ」

©Itaru Chiba

──ライオンズの翌年はホークス。その後もイーグルス、スワローズと着実に活動の幅が広がっていますね。しかも、ラリーさんが関わりはじめた年に、ライオンズは日本一、スワローズはセ・リーグ制覇!

 

そうなんです!イーグルスも関わって2年目で、初の日本一になりました。それはもう、めちゃくちゃ嬉しかったですよ。

 

──優勝請負人ですね!その後はカーリングやBリーグ(バスケットボール)の仕事も増え、なんといっても来シーズンからはラグビーのサンウルブズ。なぜ、受注することができた?

 

サンウルブズからもらったテーマが、スタジアムに来るときも帰るときも着れるような「街着を意識したデザイン」でした。これって、僕がプロ野球のユニフォームでやってきたことそのものなんです。

これまでのサンウルブズのユニフォームは丸首でしたが、今風の「襟付き」で提案しました。襟がつくことで、かなり街着感が出た。うまく僕のテーマにハマってくれましたね。ファンの方にも通じたのか、おかげさまで評判も上々です。

 

──「街着デザイナー」ならではの提案ですね。

 

僕には「ユニフォームを街着にしたい」というブレない軸があります。競技が何であれ、すべてをそのテーマに寄せている。サンウルブズからのオファーと僕の軸とが完全に一致したので、もう任せてくださいという感じでした。

そもそも、ラグビーも野球もサッカーも、歴史のあるスポーツのユニフォームって普通の服から始まってるんですよ。だから、反対に当時の服に近づけていけば、自然とかわいくなって街着になるんです。

僕は「温故知新型」で、新しいものは何も作っていない。発想の問題です。昔ながらのものを今風にしているだけという。

 

──簡単なことのように聞こえますが、目のつけどころが違いますよ。

 

なにか手を加えているけれどシンプル。そういうデザインが自分のウリだと思っています。「なにもしなくてシンプル」とは違いますよ。ちゃんと仕事をしたうえでシンプルであることを意識しています。

お寿司屋さんが好例です。少し炙って塩を振ってすだちをかけるまでで一手間。食べたときに「シンプルで美味しい」って言うと思うんですが、本当にシンプルならネタを乗せてそのまま出す。そうじゃなく、手間はかけるけど結果はシンプルというのが狙いなんです。

「アスリートは人生を懸けている。ユニフォームをつくる側も同じだけ努力すべき」

©Itaru Chiba

──先ほどから気になっていたのですが、「かっこいい」ではなく「かわいい」が大切?

 

かっこいいものを選手に着せてしまうと「too much」なんです。かわいいものを着せたほうがバランスがいいと僕は思います。

ニューヨーク・ヤンキースのロゴを見ると、男性でもかわいいって言うじゃないですか?洋服を買うときも、プリントを見てかっこいいって言う人は少ない。大半の人はかわいいって言って買うんです。

 

──たしかに、当たり前のように「かわいい」という言葉を使ってますね。そのあたりの分析も含め、話を聞いていると圧倒的な自信を感じます。

 

これまでの努力に対する自信はあります。たまに若い人たちから「自分もユニフォームのデザインがしたい」と相談されるんですが、僕は二十歳の頃には検定で満点をとれるくらいの知識があったけど、彼らはそこまでではなさそうなんですよ。

野球が好き。そんな人はたくさんいます。こういう風になりたいならそれなりに努力しようよっていう話です。

 

──過去の自分と比べて、努力が足りないと。

 

熱は感じます。でも、それだけじゃ足りない。

だって、ユニフォームを着ている選手たちは10代の頃からめちゃくちゃ努力してきたわけじゃないですか。それなのに、なぜそのユニフォームをデザインする側の人間は努力しないんだっていう。単純に、同じだけ努力するべきだと思います。

アスリートは人生を懸けているんだから、こっちが「ただ好きだから」なんて理由でやっちゃいけない。失礼だと思います。僕でも足りてないと思ってますよ。彼らの努力は半端じゃない。

 

──これだけの実績がありながら、「まだ努力が足りない」と思える。そこにラリーさんの強さを感じます。満足感はまったくない?

 

全然ないですよ。かつての夢だった日本球界のユニフォームをデザインしている今の僕には、メジャーリーグ球団のユニフォームやロゴを手がけるという新たな夢がありますから。

Jリーグをはじめ、まだやったことのないスポーツだってありますし、野球は台湾にも韓国にもあります。日本代表やスタジアムデザインだってやってみたいです。

 

──やりたいことが山ほどあるんですね。

 

むしろ、やっとスタート地点に立てたと思っているレベルです。メジャーリーグの球団に関わりたいということは10年前から言ってるんですが、そのときはまだ実績もない。ただ単に夢物語なんです。

でも今なら、もしかしたら可能性があるかもしれない。やっと準備が整ったというか、言っていたことが少し現実的になったかなという段階です。

まだまだ、これからですよ。

©Itaru Chiba
Top image: © Itaru Chiba
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