「なんでもいい」っていうのは、「自分」と「選択権」を放棄することだ
ふとした時に、ハッとする事を言ってくる。
子どもって不思議だ。
先日のこと、普段通りの昼下がり。
家族で「お昼、何食べる?」となった。
あれを食べたい、これを食べたい。
うん、パパはなんでもいいよーって言ったら、息子がサラリと 「なんでもいいよは、ダメでしょ」と。
息子に聞いてみる。
「どうしてダメだと思うの?」
そしたら、ハッとする答えが返ってきた。
「だって、なんでもいいってことは、自分を捨ててるのと同じでしょ!」
深い!って思って、その意図も聞いてみると「え?何が?そんなこと言ってないよ」とかとぼけて見せる。
なんでもいい、と選択を他者に委ねればその場は楽になるが「選ぶ」という権利ばかりか「自分」という主体を放棄することになる。
この世界の全ては日々日常の選択の結果であり、過去全ての積み重ねが今の自分や環境を生み出していて、日々無数にある選択のひとつひとつがとても重要だ。そうわかってはいても忘れそうになることがある。と言うより、ダサい大人特有の“多忙という正義”を傘に着て、子どものような純粋な眼差しやワクワクから目を背けるクセがついてしまう。そんな自分を恥ずかしく思った。
選択を放棄すれば、あとはただの惰性と無気力だけだろう。たかが昼メシをどうする?って話なんだけど、まぁどうでもいいっちゃどうでもいいんだけど、でもそういう姿勢は日々の事柄だけじゃなく、環境へ意識や政治についてなど社会全体に対するスタンスにあらわれてくる。
たしかに大人になれば様々な事情が見えてくる。慎重にならざるえないことも多い。
とくに現在のように変化の多い時代には、どうなりたいか、どうしていきたいかがはっきり描けないことも。
「なんでもいい」はもうやめよう。
選ぶということは時に苦しみを伴う。でもその先に信じる未来があるならば、怖いものなどないはずだ。
そうやって今日からまた楽しんで生きて行こう
1985年生まれ。NYブルックリン在住のラッパー。一児の父。飛騨高山出身。趣味は、音楽、旅、食べること、森林浴。NYでの日常生活で感じたこと。そこからポジティブなメッセージを伝えていきたい。