がん新薬候補の「9割脱落」を、バーチャル腫瘍が変えるかもしれない
がんの新薬候補は、動物実験やシャーレの上では効果を見せたのに、いざヒトの臨床試験に進むと力を発揮できない——そんなケースが後を絶ちません。東京のスタートアップ・biomyが発表した、NVIDIAとの技術協力によるAI創薬基盤「Virtual Cell」は、この壁を計算機の中から壊しにいく試みです。
シャーレの中にヒトの腫瘍はいない
がん領域の創薬には、長年にわたって厄介な構造的課題が横たわっています。基礎研究や前臨床試験——つまり、薬をヒトに投与する前段階のテスト——で「有望だ」と判断された候補が、実際の患者さんを対象にした臨床試験では十分な効果を示せず脱落してしまうパターンです。
なぜそんなことが起きるのか。理由のひとつは、従来の検証手段の限界にあります。平面的なシャーレでの細胞培養や動物モデルでは、患者の体内で起きている複雑な現象を再現しきれません。がん細胞は単独で存在しているわけではなく、免疫細胞や間質細胞(がん細胞を取り囲む組織を構成する細胞)と絶えず相互作用しながら、独自の「腫瘍微小環境」と呼ばれる小さな生態系をつくっています。この生態系の振る舞いこそが薬の効き目を左右するのに、従来の方法ではそこまで再現できない。biomyはこれを「前臨床再現性の壁」と呼んでいます。
がん研究会の検体をAIに学ばせる
Virtual Cellの発想は、「ヒトの腫瘍微小環境を、計算機の中にデジタルツイン(現実の対象をデータで忠実に再現した仮想モデル)として再現してしまおう」というもの。
具体的には、1908年設立の日本最古のがん研究機関である公益財団法人がん研究会との連携で取得を進める臨床組織検体をもとに、遺伝子の発現パターン、タンパク質の分布、病理画像といった複数の情報を空間的に統合したデータを構築。これをAIに学習させることで、がん細胞・免疫細胞・間質細胞が入り乱れる腫瘍の複雑な相互作用を、コンピュータ上でシミュレーションできるようにする構想です。
ここでNVIDIAの技術が効いてきます。同社のGPU高速化ライブラリを導入した結果、解析ワークフローの一部で従来のCPU処理と比べて最大90%の処理時間削減を確認したとのこと(ただし効果はデータサイズやハードウェア構成により異なるとbiomyは注記しています)。膨大な生体データを扱う以上、「計算が現実的な時間で終わる」こと自体が研究の成否を分けます。90%の短縮は、単なるスピードアップではなく、試せる仮説の数そのものを変えるインパクトがあるのではないでしょうか。
さらに将来的には、研究者が自然言語で仮説を入力すると、AIが解析計画の立案からシミュレーション、結果の解釈、追加実験の提案までを一気通貫で支援するワークフローの実現を目指しているといいます。
消えた候補の先に、薬を待つ人がいる
がんは日本人の死因第1位であり続けています。新薬が患者さんの手元に届くまでには、一般に10年以上の歳月と莫大なコストがかかると言われてきました。その長い道のりの途中で、有望だったはずの候補が「前臨床の壁」に阻まれて消えていく。その一つひとつの脱落の向こう側には、薬を待っている人がいます。
もちろん、Virtual Cellはまだ開発途上の基盤であり、バーチャルな腫瘍がどこまでヒトの体内の複雑さを再現できるのか、検証はこれからです。それでも、「動物の体で近似する」から「ヒトの腫瘍をデジタルに再現して試す」へと前提そのものを書き換えようとするこのアプローチには、創薬の時間軸を根本から変えうる可能性が宿っているように感じます。
計算機の中に再現された腫瘍が、いつか誰かの「届かなかったはずの薬」を届ける日が来るかもしれない。そう思うと、スタートアップのプレスリリースひとつが、少しだけ違って見えてきませんか。






