英国の食卓を支える大地が、海に沈むかもしれない。農業大国の知られざる危機
広大な畑が広がる穀倉地帯と聞けば、大地の恵みという言葉が自然と浮かびます。ところが英国東部に、その常識をひっくり返す土地があります。ポンプを止めた瞬間に海へ還る、巨大な「人工装置」としての農地です。
海面より低い土地で
野菜をつくるということ
英国東部の低地沿岸平野「フェンズ」は、国内の野菜生産の大きな割合を担う一大農業地帯です。しかしその大部分は海面より低く、海や河川、地下水からの浸水リスクに常にさらされています。この土地が農地として成り立っているのは、堤防とポンプと排水路という人為的なインフラが24時間稼働し続けているから。イースト・アングリア大学ティンダル気候変動研究センターは、この地域を「英国で最も人工的な景観」と表現しています。
17世紀から数百年かけて排水・干拓されてきたフェンズでは、泥炭地の沈下も進み、地面はさらに低くなり続けています。つまり「豊かな農地」に見える風景は、人間が絶え間なく手を加え続けた結果であり、その手を緩めれば消える存在なのです。
2050年代、インフラの限界が
食卓を脅かす
同センターがこのほど公表した地域特化型の気候変動リスク評価によると、状況はかなり切迫しています。2℃の気温上昇が見込まれる2030年代から2050年代にかけて、洪水リスクの増大や極端な気象の頻発、水資源の制約による農業生産性の低下が見込まれています。
さらに2050年代から2070年代には、大規模な洪水や深刻な干ばつ、海面上昇がインフラとコミュニティを致命的に脅かす可能性があるとのこと。主席研究者のKatie Jenkins博士は「課題は互いに絡み合っており、解決策も同様でなければならない」と指摘しています。排出削減が進まなければ、2100年までにフェンズの一部は居住も食料生産も不可能になるという予測です。
これを受け、英国の環境庁や水道事業者Anglian Water、複数の地方自治体が連携する統合的な適応プログラムが動き出しています。Anglian Waterは戦略的なパイプライン整備や新たな貯水池の建設を含む大規模投資を提案しており、「装置」を次の世紀まで持たせるための綱渡りが始まっています。
「産地」ではなく
「維持コスト」で食を見る
私たちは食べ物の産地を気にしても、その産地が存在し続けるためのコストにはあまり目を向けません。けれどフェンズの話は、農地そのものが巨額のインフラ投資と日々のメンテナンスによって維持されている現実を突きつけます。
日本にも東京の江東区や大阪の西部など、海抜ゼロメートル地帯は少なくありません。干拓によって生まれた農地も各地にあります。気候変動がもたらすリスクは、遠い島国の海面上昇ではなく、今日スーパーに並ぶ野菜の裏側で静かに進行している話なのかもしれません。食卓に届く一束の野菜が、どれほどの「装置」に支えられているのか。その想像力が、気候変動を自分ごとにする最初の一歩になるのではないでしょうか。






