「私がやっているのは、愛の告白」——マリエ、1万字インタビュー(前編)
あの「マリエ」だ。
もう10年ほど前だろう、彼女をバラエティ番組などでよく観たのは。聞けば、テレビのレギュラーは最大週9本、年間で150本の番組に出ていたという。そんな彼女に、こんなかたちでインタビューする日が来るとは思っていなかった。
2017年6月、マリエは自身のブランド「PASCAL MARIE DESMARAIS(パスカル マリエ デマレ)」を立ち上げた。ECでも販売せず、東京にも店舗を構えない。それどころか、「今まで知らなかった、“ファッション(技術と流行)を作る日本”を知ってほしい」と、北は仙台から南は鹿児島まで全国16ヶ所、セレクトショップや生産業者を訪ねるバスツアーまで開催している。
10年前と今では、その生き方は飛距離がありすぎる——ということで、じっくり90分、話を訊かせてもらった。インタビュー前編の今回は、セレブタレントとして「売れた」彼女が見た景色、そして向き合った自分自身についてだ。
「有名になったとき、思った。
『自分がなりたいかたちで
有名になったのかな?』って」
——ブランド「PASCAL MARIE DESMARAIS」、そしてツアーという試みも気になるんですけど、まずはどうしてもライフヒストリー的なところが気になって。訊いてもいいですか?
「はい、もちろんです」
——ありがとうございます。やっぱり私は、テレビで見ていたマリエさんのイメージがすごく強くて。モデルを始めたのは、小学校5年生の時ですよね?
「はい、10歳ですね」
——そこからファッション誌『ViVi』(講談社)の人気モデルになり、タレントとしても人気が出て。ご多忙だった当時は、どんな感じだったんですか?
「そうですね……。当時はお仕事を断るとか、そういうことがわからなかったので、来た仕事は全部引き受けて。モデルの仕事もしていたので、朝6時ぐらいに集合して撮影して、12時ぐらいに終わって、お昼からテレビの収録、夜からは深夜番組の収録、それからインタビュー2本くらい受けて帰る、みたいな」
——……寝てませんよね?
「そうですね(笑)。最高で100日ぐらい休みなしとか」
アトリエには当時の思い出の品も残されていた
「でも、逆に嬉しかったんです。仕事がある喜びというか。ただ、22〜24歳とか——特に女性はそうだと思うんですけど、二十歳を過ぎると『今後どうするのかな?』っていう、気持ちのブレみたいなのがすごくあったと思うんですね。普通に大学に行ってたらちょうど卒業して就職する年で、結婚するのかなあ、とか、自分のやりたいこと——人にバカにされそうな夢とか、追っててもいいのかな?とか。忙しいなかで、無意識ではあったけどそういうのがあったのかなと思います」
——夢って、パーソンズ美術大学に行くことですか? 17歳の時からの夢だったとどこかで読んだことがあって。
「そうですね。ずっとパーソンズへは行きたいなっていうのはありましたね」
——それはどうして?
「本格的にバラエティ番組に出はじめたのが18歳のときだったんですけど、その前はやっぱり成功するチャンスがあるのかもわからないから、進路のことも考えていて。親が『進路どうすんの?』ってよく訊いてくるのもあって(笑)。大学行くなら、やっぱり美術大学に行きたいなっていうのはずっとあって、日本の美術大学もいいし、アントワープ(ベルギー・アントウェルペンにあるアントワープ王立芸術アカデミー)にも有名なところはあるけど、ニューヨークが漠然と好きで、憧れというか。だから、パーソンズに行きたいと」
——それは、有名になりたい、大物になりたい!という気持ちからというか。
「みんな育つ環境がちがうから、私だけがこうなのかわからないけど(笑)。当時はなんか、有名になることがすごい!みたいな。歌手でも女優でもモデルでも、スターになったら成功という感じで世の中をとらえていたというか」
——なるほど。
「でも結局有名になったとき、『自分がなりたいかたちで有名になったのかな?』って。もちろん、それで学んだこともたくさんあるけれど、サティスファクションとしてはね、自分は満たされなかったっていうのはあります」
——当時はご自身のことを「色もの」だとおっしゃっていて。
「思ってましたね(笑)」
——モデルの仕事はデザイナーや雑誌の編集者に求められるもの、テレビの仕事はディレクターに求められるものっていう、それぞれの答えの出し方はお上手だったと思うんです。
「嬉しい(笑)。そういう自分もいるということは、楽しいことでもあったんです」
——それがある年齢に達したとき、「求められるものを差し出す」以上の、それこそ「自分って何なんだ?」というところに向き合いたくて留学に行ったんじゃないか——というのが私の見解なんですけど(笑)。
「ははは。おっしゃるとおりだと思います。そこに漠然と『好きなこと=デザイン、アート』っていうのがあったので、それがその後の大きなヒントになったんじゃないかな。ファッションといってもいろんなものがあるし、それを考えていくうえで、自分が好きなものが何かわかっていたのは嬉しかったですね」
パーソンズ美術大学でとりくんだ課題を開くマリエ。マーケティングの授業では日本の某家電量販店をプレゼンしたそう
——ファッションには小さい頃から興味があったんですか?
「そうですね。私末っ子なんですけど、姉がふたりいて、すごくおしゃれで。当時はもうなんでも真似したいっていうか(笑)」
——私も姉がいるのでわかります(笑)。
「姉の読んでる雑誌とか、学校に行ってる間にちょっと見たりして」
——ちょっとズレてるのがバレて(笑)。
「すごく怒られたりとか(笑)。あとは、小学校がかなり厳格な女子校だったんですけど、覚えているのは——5〜6歳の時かな? ピアノの発表会で初めてドレスを着ることになって親と一緒に買いに行ったんですけど、スカートのシフォン、『二重じゃヤ!』って(笑)」
——二重なんかじゃ足りないんだと(笑)。
「シフォンが重なっていれば重なっているほど嬉しくて、すごくテンションが上がったんですよ。『ママ、これ見て〜!』って。いまだになぜかわからないんですけど」
——強烈な思い出として残ってるんですね。
「そうですね。あとは、小学校のときは制服だったので、私服を着るのは遠足のときだけなんですけど、すごく気合い入れたりとか」
——普通は「おやつ何買おう」とかですよね。
「そう。でももうコーディネートのことしか考えてないんです(笑)タレントの千秋さんが好きで、真似しておしゃれなジャージとか着てみたりとかしてましたね」
——小さい頃からファッションが好きと自覚していた一方で、無意識のうちにファッションがもつ力も感じていたんでしょうね。
「うん、そうかもしれませんね」
「だったら、私は全部知りたい」
—— モデルを始め、タレントとしても活躍されているタイミングで、アパレルブランドのデザインを担当されました。それはどういう経緯で?
「当時、モデルがどこかのブランドとコラボしたり、プロデュースをする、みたいなことが少し流行ったというか。それで『セカンドラインのようなかたちで出しませんか?』とお声かけいただいたのがきっかけです」
——普段のモデルやタレント活動とはまた違った、しかも好きな分野での仕事だったと思うんですけど、どうでしたか?
「少量のアイテムではあったんですけど2〜3シーズンほどやらせてもらって、すごく好評で完売して」
——やった! 嬉しい! って感じ?
「結局……すごく楽しかったんですけど、『これ、ファンの人たちが買ってくださっているんだよなぁ』と思って」
——というのは?
「ちゃんとした値段で買ってくれてるんだから、やっぱり、作るほうには責任があると。ブランド側のやり方がいけないって言ってるわけじゃないんです。それが当たり前だと思うし、私もきちんとやり遂げましたし。だけど、タレントとコラボするとき、たとえば『チェック柄のネルシャツがいいです』と伝えると、『来週までにいくつか用意しますね』と言われて、次の週に5種類くらいサンプルをもらう。でも、そのなかに私のほしいチェック柄がないんです。私の記憶にあるのなら、この世の中には絶対あるはずだから、『もう1回探してきてくれませんか』と。先方もまた出してきてくれるんですけど、やっぱり納得がいかなくて……『世の中にはあと何百、何千っていうチェック柄があるのになぁ』とか『ないなら、自分で作りたいなぁ』って思ったり」
——もちろん企業側の事情は理解しつつも、物作りに対しては複雑な思いがあったと。
「渋々『じゃあ、この赤で』ってチョイスすることが、果たして、ファンのためにいいものを選んでることになるのかなあ、と。だったら私は全部知りたい。この世にある、ありとあらゆるものを知ってから作りたいって本気で思って。やっぱり私はそういう性格なんだなあって思いました。それで、自分が後々洋服をやるんだったら、やっぱりちゃんとデザインを学びにいこうと思って。パーソンズへ行くことを決心した感じですね」
「自分が作りたいものを
世の中に出すっていうことは、
愛の告白に近い」
——チェック柄の出来事は、マリエさんの歴史のなかですごく重要ですよね。
「そうですね、けっこう大きいですね」
——ちゃんとした手ざわりとか、なんでこうなるのかって自分と納得しないと動けない性格だとわかったと。
「自分が作りたいものを世の中に出すっていうことを、商業的にやってるわけじゃないので。どっちかというと、愛の告白に近いというか。この間、Charaさんが言っててすごく納得することがあったんです。Charaさんは、誰かにコラボレーションのお願いをするとき、必ず自分で電話するんですって」
——マネージャーさんとかではなく?
「そう。『すごい、そこまでするんですね』って言ったら、自分は愛のうたを歌っているのにそれを誰かに『言っといて』なんて違うでしょ? って。『そんなの、誰にも言わせないでしょ、マリエ』って言われて」
——かっこいいー!!
「クリエイティブとしてすごく正しいですよね。それは自分の物作りにもすごい似てるなと思ったんです。誰かにデザインさせたり、作らせたりしない。自分のクリエイションは人に伝えるためで、お金のためだけではないから。『それは人に任せらんないわ!』と思って」
——うんうん。
「もちろん、スケジュール管理とかをやってくれる人はいるんですけど、今回のツアーも、全部自分で見に行って話して。やっぱり、彼らの現場や仕事場を見ることで、デザインに関して『ここまでならきっとできるな』とか『人数少なそうだしこの時期は大変そうだな』とか、『あの機械あるんだったら、あれとこれを組み合わせれば、このデザインまでたどりつけるな』っていうのがわかるので」
——さっき「愛」っておっしゃいましたけど、愛って責任ですよね。たとえば写真も、絵画と違って何枚もプリントできるのにも関わらず、値段がついて、シリアルナンバーがあって。それはやっぱりフォトグラファーが責任を持って販売できる量だし、その責任が、自分の仕事や買ってくれる人への愛なわけで。
「若いとき——24くらいまでって、どう自分が満たされるかだったと思うんです。自分を喜ばせるためのファッションだったり恋愛だったり。でも今は人が喜んでなんぼだと思ってるので、だから自分の作品やチームに責任を持たないと思うし、ただ作るだけじゃなくて、売るプロセス、買うプロセス、さらにそれが捨てられるまでのプロセス、全部をデザインし直さないとと思っています。それをやらないと、自分たちのブランドじゃないなって思ってます」
——ちょっとぶっこんじゃいますが。
「はい(笑)」
——東日本大震災の時、「世の中チャリティ産業か」という内容でツイートして、ちょっと、炎上というか。
「言葉は悪かったなぁ、と自分でも……。今はまわりの子とかに、ツイートするときは気をつけなよって言ってます(苦笑)」
——(笑)。でも、個人的には理解できると思っていて。当時、誰もがそれぞれのかたちで混乱したと思うんです。そのなかで、募金やボランティア、いろんなかたちがあったけれど、何を選ぶにもマリエさんは、自分の頭でちゃんと考えて、選択して、行動したかった。そういう、「選択」と「責任」の人なんだと思うんですよ。
「うん、そうですね……。親しくしていた友人がちょうど石巻付近の出身の方で。大切な方たちと連絡がとれない、それが11日間続いて。友人のケアをしつつ私がいろんなところに確認しながら、Twitterで生存確認ができたこともありました。そんな状況の時に、『マリエは募金の声明を出さないのか』という書き込みを目にしてしまって……それであんなツイートを。本当に、言葉が汚かったことには申し訳なさを感じているんですけれど、私は仙台がすごく好きだったし、今一緒に仙台の方とお仕事できてるから、それがすごく嬉しいんですよ」
——今、そうやってつながってるんですね。
「1週間前は、気仙沼の『オイカワデニム』に行ってきて——今も崩れたままの橋があったりするところなんですけど。できることを、できるタイミングで個々がやればいいと思う。今私はファッションというかたちで、大人になった今だからこそできることをやっていきたいんです」
(後編に続く)