なぜ「京都の住所」には、珍しいものが多いのか?
歴史的建造物が多く残り、観光地としても人気の「京都」。その地で活躍した人物や歴史的事件は、国内外問わず多くの人が興味を持っています。
これまで、地図や鉄道関連の本に数多く携わってきたフリーライターの今尾恵介さん著書『番地の謎』(光文社)では、そんな京都の住所名に注目。
東西南北にある通りの組み合わせで地点を特定する、という伝統的なシステムを採用している謎にも踏み込んでいます。
※以下は光文社知恵の森文庫『番地の謎』を再編集したものです。
「通り名」で表示する
京都独自の方式
京都の住所表示は長らく、東西と南北の「通り名」を組み合わせた独自の方式が存続してきました。
まず、京都市の旧市内の範囲をほぼカバーする上京・中京・下京の区役所の所在地を並べてみると、いずれも東西南北の通りが示され、さらに上下東西の方向指示が入ります。「上る」は北へ、「下る」は南へ、「西入る」は西へ、「東入る」は東へ、それぞれ入ることを意味します。
上京区役所……上京区今出川通室町西入堀出シ町285番地
中京区役所……中京区西堀川通御池下る西三坊堀川町521番地
下京区役所……下京区西洞院通塩小路上る東塩小路町608番地8
これらの住所のうち、堀出シ町285番地、西三坊堀川町521番地、東塩小路町608番地8というのは、「通り名」による住所表示とは別に古くから存在する町名であり、これらは不動産の取引など改まった場合以外ではあまり使われません。
これら旧市内の町は非常に狭くて、おおむね1ha(100メートル四法)に満たないものが多いですが、それぞれに由緒を誇っています。
「住所」と「通り」の
関係って?
京都の住所が東西通りと南北通りの組み合わせで表せるというのは分かりましたが、どちらの通りを先に書くのか…という疑問が残ります。
たとえば、中京区の西堀川通と下京区の西洞院通はいずれも南北通りですが、どちらも違う通りが先に表記されています。
結論から言えば、表示すべき建物が面している通りを先に書き、次に書かれるのは最寄りで交差する通り名となります。そして、その交通地点から東西南北どちらへ行けばたどり着けるのかを「上る・下る・西入る・東入る」で指し示すというのが京都の伝統的住所表示システムです。
ですから、住所に「西入る・東入る」があれば東西通り、「上る・下る」があれば南北通りに面していることが分かります。ちなみに、ちょうど角の家はどうなるのかというと、そのものズバリ「角」という表記をしています。
そうしたわけで、同じ「町」であっても、最寄りの通りとの関係で異なる住所の表示が行われる場合があるのです。
旧市街以外の町名は?
ここでは、京都市のこれまでの合併の歴史の一部を紹介していきましょう。
・明治11年(1878)
郡区町村編制法により上京区・下京区を設置・明治22年(1889)
上京区・下京区を合併して市制施行、京都市となる
行政区として上京区、下京区を設置・明治35年(1902)
葛野郡野口村や田中村など各全域、大宮村、上賀茂村の各一部、葛野郡衣笠村を上京区に編入葛野郡大内村、七条村、朱雀野村の全域、西院村の一部、紀伊郡東九条村、柳原町の各全域、上羽鳥村や深草村の各一部を下京区に編入
・昭和4年(1929)
上京区を分割して左京区、下京区を分割して東山区、上京・下京両区をそれぞれ分割して中京区を設置・昭和6年(1931)
葛野郡嵯峨町、京極村、西院村、梅津村、桂村などを編入(右京区設置)
伏見市、紀伊郡深草町、堀内村などを編入(伏見区設置)
愛宕郡上賀茂村、大宮村、鷹峯村を上京区に編入
愛宕郡修学院村、松ヶ崎村を左京区に編入
紀伊郡吉祥院村、上鳥羽村を下京区に編入
宇治郡山科町を東山区に編入
……京都市は、戦前だけでこれだけ多くの市町村を合併しています。
戦後は、北部を中心に大原や鞍馬などかなりの市域拡大があり、分区で山科区や北区、南区、西京区が設置されて現在に至っています。京都市内に編入された旧村域は、現在ことごとく「町」が付けられていますが、複合町名がほとんどを占めます。
つまり、旧村の名を冠してその旧小字を重ね、それに「町」を付けているのです。