今となっては訪れることのできない「幻の世界遺産」。
「シリア」と聞くと、どんなイメージが浮かぶでしょうか?
おそらく「怖い」「テロ」「内戦」「イスラム国」といった辺りでしょう。ニュースで見ない日がほとんど無いくらい、聞こえてくるのは悲しい話ばかりですから。
ですが、エジプト特派員時代を含めたこの20年、中東の様々な国を見てきた僕に言わせれば、心優しい人々に接した機会が一番多かったのがシリアだった気がします。
かつて、といってもほんの5、6年前まで、世界をまわるバックパッカーにとって、シリアは中東で欠くことのできない国でした。レバノン→シリア→ヨルダン→イスラエルという定番ルートを歩んだ旅人も少なくないでしょう。
今回は「本当はそんな国ではなかったのに…」という思いを抱きつつ、僕のアルバムに残る「今となっては行けないシリアガイド」をお届けしたいと思います。
砂漠のど真ん中に広がる
巨大な都市遺跡
シリアに観光で行くと、現地の人からは大抵「パルミラはもう見たか?」と言われたものです。日本でいう京都的な存在といえば分かりやすいかもしれません。
シリアのちょうど中央あたり、砂漠のど真ん中にあるのがパルミラ(アラビア語ではタドモル)です。周りには、本当に何もなし。ここには紀元前3世紀から続くローマ時代の都市遺跡が、世界遺産として丸ごと残っていました。
首都ダマスカスから砂漠の中を車で走ることおよそ3時間。パルミラの入り口、バックパッカー目当てのホテルやレストランが並ぶ大通りに着きます。 パルミラはオアシスに接した人が住む街と、都市の遺跡、それに郊外に点在する塔墓、さらに街全体を見下ろす丘の上に立つ「アラブ城」から成り立ちます。
心から思う。
「内戦さえなければ…」
遺跡ゾーンに入ってまず目に入ったのがベル神殿です。舗装道路があるのはここまで。この先には、ほとんど手付かずのローマ時代の都市が広がっていました。
僕が初めて訪れたのは1996年、それから10年経って再訪しても何も変わっていませんでした。内戦さえなければ更にこの先何十年、いや100年以上、変わらぬ姿を残していたのではないかと思います。
ベル神殿から列柱道路と呼ばれる柱が並ぶ、メインストリートが続きます。この辺りはガイドの乗ったラクダが時折行き来する程度で、本当に手付かずで遺跡に触れることが出来ました。
石畳の先に残っていたのが「四面門」というパルミラ遺跡の見どころの一つです。さらにその脇にはローマの円形劇場が広がっていました。あちこちに残る住宅跡や浴場跡を歩き回っていると、古代ローマ帝国の時代に、シルクロードを越えてきた旅人や、パルミラの人々の暮らしが目に浮かぶようです。
パルミラ観光では、日差しのまだ弱い午前中に神殿や四面門、円形劇場などを歩いて見て回る。そして、太陽の照りつける日中は、遺跡の中にあるホテルや街でランチを取りながら一休み、日が弱くなる夕方に、ガイドの運転する軽トラの荷台やタクシーに乗って、郊外の塔墓を幾つか巡るのが定番でした。
決して忘れられない
砂漠と夕日
遺跡巡りのハイライトが「アラブ城」。
夕方、日が沈む前に丘の頂上の城を目指しました。車でも登れますが、やっぱり徒歩がベター。岩肌を歩いて登り、振り返ると街の先、遥か遠くまで見渡す限り岩の砂漠が広がる景色は、今でも決して忘れられません。
日の沈む頃、城壁には多くの観光客が足を投げ出して座ります。僕も一緒になって、壁の色をオレンジ色からダークブルーに変えながら地平線に沈む夕日を眺めたものです。
さて、2017年のパルミラはどうなっているのか──。
どうやらここまで紹介してきた写真の光景は、遺跡の「末期」の写真となってしまったようです。シルクロードの時代から東西・南北の砂漠の交易路の要衝だったパルミラは、現代でも同じく戦略的な要衝であることに変わりなく、そうであるが故に都市の遺跡は破壊されることになってしまいました。
2015年にイスラム国が制圧したあと、円形劇場は彼らに反抗する市民が連れてこられ処刑場と化したといいます。イスラム国の戦闘員が立て籠もったアラブ城も、激しい戦闘に晒されました。ベル神殿や四面門なども破壊され、2000年以上の歴史に幕を閉じました。その後、ロシアの支援でシリア政府軍が一時、パルミラを取り返したものの、去年の暮れに再びイスラム国が侵入。今年に入ってようやく解放されたと伝えられています。
また自由にパルミラの遺跡を歩くことが出来るのは、いつの日になるのでしょうか。