泣きながら帰った日に手にしたボトルは、「大失恋」した私を前に向かせてくれた。
「実は、転勤になったんだ」
「えっ」
突然の言葉に、力が抜けていくのを感じた。持ちかけていたカップがガチャンと音をたて、頭の中では「転勤」という文字がグルグルまわりはじめた。
それは、やわらかい日ざしが差しこむカフェのテラスでのできごとだった。
風にふかれる彼の髪の毛を目で追いながら、(もうすこし暖かくなったらいつお花見に行くか決めなきゃ)などと、ぼんやり考えていた時のことだったのだ。
転勤の話を聞いて動揺していると、彼が先に口を開いた。
「一緒に来て欲しい」
緊張した顔で彼は言った。さっきのひと言は、別れを意味したわけではなかったのだと私は胸をなでおろす。
でも、すぐに頷くことはできなかった。本当ならここで喜ぶべきだろう。代わりに、私の頭のなかには友達や仕事のことが浮かんでいた。
「ちょっと考える時間をもらってもいいかな?」
私がそう言うと、彼は不安げに頷いた。心がチクリと傷んだ。彼のことが好きだからこそガッカリさせたくはない。でも、自分のなかで答えはもう、決まっている気がした──。
ゆううつな春の日に吹いた
ジャスミンの香り
数ヶ月後──
あの日、転勤の話をうちあけられた後、「まだこっちでやりたいことがあるから」と、彼と別れてしまった私。でも、肝心の仕事はうまくいっていない。
営業先のクライアントに提案書をもっていっても、緊張でうまく話をまとめられずに終わったり、しまいには同行してもらった上司に「本当に相手先のことを考えて提案してないだろ」と一蹴されてしまった。
その夜、会社から家への道をひとり歩いていると、悔し涙があふれてきた。
気晴らしにSNSをひらくと、別れた彼がアップしていた写真が目に入った。新しい同僚と飲みにいったり出かけたりして、新生活を楽しんでいるよう。
ふと見ると、彼の隣にはいつも同じ女の子がいて、幸せそうに笑っている。
もしかして、新しい彼女ができたのかな──。
ため息をついて携帯をカバンの中にしまった。暗い夜道にもれるドラッグストアの灯りを見て、家にシャンプーの買い置きがないことを思い出す。
吸い込まれるように店内に入り、入口付近のヘアケアコーナーを歩いた。普段購入するカラフルなシャンプーボトルを見ても、いつものように気分があがることはない。
代わりに目に入ってきたのは、黒い文字が書かれただけのボトル。透明の容器を見ていると、余計なことばかり考えていた心のなかが、すこしだけ落ち着く気がした。
香りのサンプルをかぐと、ほのかに漂うジャスミンの香りに癒された。
数年前、留学先のシカゴで気晴らしに訪れていた、植物園に咲くジャスミンの花を思い出す。当時付き合っていたアメリカ人の彼が、ときどき連れて行ってくれた場所。
帰宅して、さきほど購入したシャンプーを手にバスルームへむかった。冷えたカラダに温かいお湯をあてると、モヤモヤ渦巻いていた感情が涙となって頬をつたった。
誰もいないこの空間で(今、自分の感情をだせる場所はココしかないかもしれない…)と思うと、自然と涙が溢れつづけた。
バスルームに広がるほんのり甘くて優しい香りだけが、沈んだ気持ちをそっと包み込んでくれている。
週末に見た空が、
数年前の景色とかさなった時…。
週末、都内にある日本一高い展望台へひとり足をはこんだ。最近は、職場と家の往復ばかりで息つくヒマもなかったから…。
タワーのうえまでのぼって、足元にある東京の街を見下ろすと、いつもは飲み込まれそうに感じる巨大なコンクリートの塊が、子どもの時に遊んだレゴのようにちっぽけに見えた。
まわりにいる人は、観光客がほとんど。実際に住んでいると、自分が生活している街を空にちかい場所から見る機会はそうそうない。
目の前にひろがる景色を見ると、太陽がちょうど沈んでいくところだった。
高層ビルのむこう側にゆっくり落ちていく光は、雲ひとつない空を、ピンク、青、紫のグラデーションに染めていく。
それはまるで、シカゴに住んでいた時に「ウィリス・タワー」から見た夕日のようだった。
あの時も、留学先で付き合っていたアメリカ人の彼は隣にいてくれた。
慣れない海外生活で、側にいて見守ってくれた人。大学を卒業したあと、私は「日本へ帰りたい」と言って、さよならを告げてしまったけれど…。別れ際、一瞬だけ彼が見せた言葉にできない表情は、今でも鮮明におぼえている。
遠い場所へ行ってしまう人を、悲しいけれど応援したいという消化できない切なさがにじんでいた。
数年前の元彼の感情が、数ヶ月前に別れた彼への自分の気持ちと重なって、目の前の視界が涙でぼやけていった。
(数年たって、今さら私はあの時の彼の気持ちをほんとうに知れた気がする。本当にダメなやつだ…)
自分ばかりが辛いという気分になっていたけれど、私だって、昔大切な人がくれた思いがあってここにいる。
今頑張ることを諦めて、あの時背中を押してくれた人の気持ちを裏切ることはしたくない。
小さな気づきがもたらした
「新しい朝」
次の日、目が覚めるといつもと変わらない朝があった。けれど、ひとつだけ感じたことがある。
それは、きのうの私より、強くなれている気がするということ──。
会社へ行って、今日から仕事がとつぜん上達したり、いきなり上司から褒められるようになるわけじゃない。
でも、これまでずっと立ち止まっていた場所からは、一歩前へすすめていると思う。
いつもより軽快なあしどりで会社へ向かうと、揺れる髪の毛からただよう香りにふと笑顔がこぼれた。
記憶の中のジャスミンの花とシャンプーのほのかな香りに、そっと背中を押されている気がした。