超歌唱家「巻上公一」が70年代のNYとロンドンで見たもの
2008年のハロウィンイベントで見た、忘れられないパフォーマンスがある。
そこには、Medeski Martin & Wood、Cyro Baptista & Banquet of the Spirits、Jamie Cullum、SOIL & "PIMP" SESSIONSが集まり、個性的な音楽ライブが開催されていた。
そのなかでとくに異彩を放っていたのが、ブラジル音楽界の重鎮シロ・バプティスタ率いるバンドのライブにゲスト参加し、爆速の口琴とスキャットのような歌、聞いたことがないほどアグレッシブなホーメイ(喉歌)の即興演奏で、強烈なインパクトを残した“超歌唱家”、巻上公一さんだった。
10年前、事前情報無しでパフォーマンスを見たときは、無知で恐縮ながら、てっきり「モンゴルあたりからやってきたワールド・ミュージック界の偉人なのだろう。貴重だ!」と勝手に想像して喜んでいた。あとで日本人と知って驚いた。
正体の掴めないフレッシュなパフォーマンスだったから余計にビックリしたことを覚えている。
彼は、ヒカシューでバンド活動するほか、今年で11回目を迎えるフェス「Jazz Art せんがわ 2018」や、寺院のなかにつくられた手作りの総檜コンサートホールで開催される「湯河原ジャズフェスティバル」といった、イベントのプロデューサーとしても引っ張りだこな、世界的に知られる文化人。
なかでも2008年から始まった「Jazz Art せんがわ」は、世界中のミュージシャンから出演希望が殺到するイベントだったという。
残念ながら、せんがわ劇場が指定管理者制度を導入したことによって、突然今年で終幕することが決まってしまったけれど、その反響は大きく、現在は場所を移すなど、続行する方法を検討しているそうだ。
このインタビューは、終幕の通達があった1週間前に、巻上さんのルーツを中学生時代から振り返ってもらったもの。
“超歌唱家”って何? なんで世界中のミュージシャンが彼のもとに集まってくるの? そんな素朴な疑問に対する答えは驚きの連続だった。
きっと、この記事を読めば、彼のアウトプットを直に体験してみたくなるはず。そして、できればYouTubeよりも先に、ライブを楽しんで欲しい。
#1 70年代のNYとロンドンで「超歌唱家」が見たもの
#2 孔子が考えた「音を出さない演奏法」
#3 音量が大きくなるとそれは政治になる
#4 「CLUB JAZZ 屏風」ってなんですか?
#5 ターニングポイント
ぽんぽんぽん……。
――その楽器はなんですか?
これはね、木のトランペット。ラトビアで買ったの。見た目がかっこいいでしょ? 東京オリンピックのファンファーレは木のトランペットがいいんじゃないかなって提案(笑)。
隈研吾が木で会場つくってるじゃん。見たときにコレだって思ったんだよ。金管じゃねえ、木管だ!ってね。ちょっとあったかい音がするんだよ。椎名林檎に売り込みたいね。
トランペットらしい華やかさと同時に、木の温かみや深みを感じる美しい音が響く。
――どこか哀愁も感じる響きですね。
でしょう? ここは場所もいいからさ。コルネットなんかを吹くとすごく気持ちいいんだよ。
インタビューをした吉祥院のなかにある檜チャリティコンサートホール。9月24日(月・祝)に開催される湯河原ジャズフェスティバルの会場。すべて檜でできた手作りのホール。
#1
70年代のNYとロンドンで
「超歌唱家」が見たもの
――ところで、楽器はどれくらい持っているんですか?
たくさん、だね。口琴だけで300個くらいあるから。イギルや、ドシュプルールっていう、もう20年以上交流してるトゥバ共和国の楽器とか。中国とソビエトの境界線にあったから、あまり知られてなかったんだけど。
コルネットは昔から使ってて、これは最近買ったもの。
あとは小田原鋳物っていう、黒澤明の映画『赤ひげ』に出てくる風鈴をつくったところの鈴とか、手作りの口琴。
今日はなんとなく気分で持ってきたかな。楽器はたくさんやるけど、基本は声だから何も持っていないときもある。
――ヴォイスパフォーマンスと民族楽器を使った即興演奏のイメージは強いです。音楽自体はいつごろから?
中学生の頃から、ふつうにバンドやってたよ。
――それは、いわゆる“フツーのバンド”?
ザ・ビートルズやレッド・ツェッペリンとかだね。オリジナルはやってなかった。友だちに人数足りないからって頼まれてカバーバンドをやってた。遊びだったね。
――それがミュージシャンになるきっかけですか?
違うよ。ミュージシャンになろうとは思ってなかった。なっちゃったんだよ。
中学3年生のときに寺山修司を好きになって、演劇の道に進むことにしたの。だから、最初は演劇。
新聞に“NY・ロンドン公演に行ける!”って書いてあったのを見て、東京キッドブラザースというミュージカル劇団のオーディションを受けた。それで1974年にNYとロンドンへ公演に行った。
――演劇とともに歌唱は学んでいたんですね。
歌って踊ってた。
もう本当に古い話だけどね。当時のNYなんて想像つかないでしょう? CBGBっていうニューヨーク・パンク発祥の地と言われているクラブができた1年後くらい。
そのときは最初のロックミュージカル『ヘアー』のオリジナルをつくった実験劇場「カフェ・ラ・ママ」というところで劇をやっていたので、その劇中歌を通りで歌ってた。イーストサイドの4丁目あたり。
ストリートフェスにラモーンズと一緒に出たのを覚えてる。まだ彼らがデビューしてない頃で、ずいぶん短い曲をやるなーって思ってた。
そのへんをニューヨーク・ドールズがきったない格好で歩いてたり、ブロンディのデボラ・ハリーがふらふら歩いてたりしたね。
――伝説的な人物との想い出がたくさんありそうです。
入国でひっかかるし、途中で劇団員はやめちゃうし、ひどかったんだけど、4ヶ月いたおかげで、名門ライブハウスのボトムラインでライブを見たり、ロフトジャズっていうムーブメントがあって、そこにもよく行ったんだよ。多くの出会いがあった。
バディ・ガイを見て、ライブ終わったあとに本人と話したり、ジュニア・ウェルズやマイケル・ブルームフィールドとか、たくさんの人に会ったよ。
――NYパンクやブルースなどのレジェンドたちと出会った。その影響で、ミュージシャンを志した、と。
いや、それも違うね。きっかけは、そのあと約2ヶ月間ロンドンに行ってから。
そういえばこないださ、デヴィッド・ボウイの大回顧展で、最初のところに『怒りをこめてふり返れ』って有名な芝居のパンフレットが置いてあったのね。
たぶんほとんどの人は注目してないんだけど、おれはそこに出てたの。だから、感動しちゃったよね。彼もそこから影響を受けたのかと思うとさ。
――ロンドン時代に出てたお芝居ってことですね。話を聞くだけでシビレます。
そうそう。ロイヤル・コート・シアターってとこでやってた。その頃に『ロッキー・ホラー・ショー』のプレミアも見に行ったね。監督のジム・シャーマンは、劇団の知りあいだったから。
――近くにいたのが、すごい人ばかり。
そうだね。それで、しばらくロンドンにいたんだけど、途中で劇団に残るのか残らないのかっていう選択を迫られた。
結局やめちゃったんだけど、現地の劇団にスカウトされて、1ヶ月もない間に2本芝居に出ることになった。
そのときに出たのが即興演劇だったの。音楽をはじめたのはそこからだね。
――即興演劇に出演したことが、音楽活動のきっかけ……?
それは、モンティ・パイソンのような劇団で、台本がない芝居だった。オブジェクトを使った空間構成や音響、そういう総合的な演出をやりはじめた最初のほうの劇団だった。そこで、宇宙人の役みたいなので出た。
宇宙語で喋れって言われて、つまり、それが最初の即興音楽の体験だったんだよ。
――巻上さんの、あの超高速スキャットのようなパフォーマンスは宇宙語だったんですか!
そう。
それがきっかけでロンドンで花咲いて、即興演奏を知った。その劇団では、ヘンリー・カウっていうプログレバンドのメンバーだったリンゼイ・クーパーが演奏をしていたり、ピンク・フロイドのロジャー・ウォータースが金銭的なサポートをしていたりした。
ロジャーとも話したけど、高校1年のときにコンサートでピンク・フロイドを見てたから、もう夢みたいな体験だった。まさか会えるなんてね。
――それらの経験を経て、日本で音楽活動を開始したと?
それがさあ……。日本に帰ってきたんだけど、結局何をやっていいのかわからなくなってしまったんだよ。
そこで起きていたことを、友だちに説明できないの。
名前を言っても誰も知らないし、演劇の話にしたって、みんながやっているのは“フツーの演劇”だったから。
それで、結局自分で演劇を始めた。その劇団の音楽をもとにバンドへ移行したのがヒカシューというバンド。
最初はほとんどが劇中歌だった。そのうち、なぜかミュージシャンになっちゃった。何事も長いことやってるとうまくなるものだよ。
――最初はいわゆるバンドではなく、劇中における音楽表現だったんですね。巻上さんの即興パフォーマンスはいつも爆発的なエネルギーに圧倒されます。その源は?
うーん。出会いは大事だよね。有能な人たちのエネルギー量は半端じゃない。それを高校卒業後に海外で目の当たりにしてしまった、っていうのはあると思う。
――たとえば、どんな人が思い浮かびますか?
70年代に内田祐也さんのロック馬鹿というイベントでみたCharとか、高校生なのにギターが上手くて衝撃的でスゴイなあいつ!って思ったり、アレックス・イーズリーっていうゴスペル歌手を見たときには、声がとんでもなく胸から出ていて、人間ってあんな声が出るんだ!って思ったり。
そういうショックをNYでも受けて、うわっ強力だなあって感じたね。今まで見てきたのはなんだったの? って思うくらい。だから、何かをやるときには、そういうチカラみたいなものは、常に持っているのかもしれない。
――なかでも最も影響されたものは?
一番の衝撃はやっぱりホーメイ(※)との出会いだね。
(※)ホーメイは、トゥバ共和国に伝わる喉をつかった笛のような音を出す歌唱法のこと。モンゴルではホーミーと呼ばれ、地域によって呼び名が異なる。
94年に、舞踊家の田中泯がトゥバ共和国のアンサンブルを山梨の白州に招聘したのね。そこで、ゲナディ・トゥマットという人を初めて見て、もうすごかった。
民謡のようなモンゴルのホーミーは知っていたけれど、トゥバのホーメイは違った。ロックバンドっぽくてかっこよかった。に〜ぃ〜う〜ぅ〜ってやつではなく、え゛〜う゛〜じゃばどぅいあ゛〜う゛〜みたいな。
50人ほどの人がそのワークショップを受けたんじゃないかな。それからトゥバに毎年行くようになった。そんな人はおれだけだったけど(笑)。隣の部屋で彼らが寝てて、朝からうぃ〜って歌っててすごかった。
#2
孔子が考えた
「音を出さない演奏法」
ちょうどそのころは、その後の自分の音楽をどうしたらいいのか考えていた時期でね。それまで、ロックとは言えど、いわゆるポピュラーな消費音楽をやってきた。
ところが、トゥバの人たちをみたときに、そうじゃない音楽も成立するのかなって思ったんだよ。
――消費を前提としたポップミュージックとは違う音楽……とは?
たとえば、孔子が考えた「音を出さない演奏法」というのがあるらしいのね。
それは、指の感覚を楽しむ琴の奏法。誰にも聞こえない。自分しか楽しくない。つまり、人に聞かせるための音楽ではない。
音楽を、人に聞かせて楽しむものという人もいるけれど、そんなに狭くない。もっと広くて、自分にしか聞こえない、一人にしか届かない音楽があってもいいということ。
それならば、その世界はもっと深いのではないかと思った。これは探求する必要があるなと。ちょうど1993年から1994年頃。そのくらいがターニングポイントだった。
それからいろいろなことがひろがった。
――具体的には?
ジョン・ゾーンという有名なNYの即興音楽家が友だちで、ソロのヴォイスアルバムをつくらないかと言ってくれた。それをNYで出したら、世界中のフェスティバルに招待されるようになった。言語のせいもあるけれど、NYは恐ろしいくらいに影響力が違う。
それまでヒカシューの活動がほとんどだったけれど、そのときに自分の原点を見直すことになった。即興のヴォイスをやったときに、これってロンドンで宇宙語をやったときといっしょだ! って思ったんだよ。それまですっかり忘れてたんだけどね。
それから、ジョン・ゾーンと関係ができたこともあって、日本に来るアーティストがおれに連絡をよこすようになった。いいマッサージ屋はないか! って(笑)。
――誰がそんな連絡してくるんですか(笑)。
Medeski Martin & Woodが初来日するってときだって、なぜかおれに連絡がきたんだよ。
ホテルでマッサージ受けたら、それがひどくて、体がおかしくなったらしくて、ちゃんとした人にかかりたいって。
そのときはヨーロッパに行ってたんだけど、変な電話がかかってきたって話になって。しかも、その時はメデスキのことを知らなかったから、誰だよっていう話になって(笑)。ジョン・ゾーンの仕業だった。
なんにせよ、音楽を発展させていくときには、人と会うってのはとても大事だと思うよ。
#3
音量が大きくなると
それは政治になる
――巻上さんは即興のワークショップなども開催していますよね。
ジョン・スティーブンスっていう、1960年代にあったジャズではないフリーインプロビゼーションを確立した人がいるのね。その人が方法論を書いた本がある。
それは、ソロの即興演奏ではなく、誰かと一緒に即興演奏する場合の方法論が書かれている本で、そのメソッドを元にいまワークショップを開催してるよ。
即興は、やっぱり仕事とかにも関係があると思う。何もないところで何を生み出せるか、ということで、演奏というのはアクションだから。
――即興は自己主張のひとつ?
そうだね。でも、即興演奏は会話であり、人の話を聞いて、自分の意見を言うということ。
とくに“一緒に歩く”ことが大事。一人だけ走っていっちゃうと、相手の声が聞こえなくなってしまうから。同じテンポで歩かないといけない。
あと、一番は音量。音量が大きくなると、それは政治になってしまう。
これもジョン・スティーブンスが言っていたことなんだけど、いるもんね、話を聞かない人って。
ちょっと演奏をするとその人の個性が分かる。支配的な性格の人かどうか、とか、自分の意見を絶対に言わない人だ、とか。
――それがパフォーマンスにも現れるんですね。
表明をすることはとても大事なのだけど、その方法を勉強しないと演奏はできない。そういう意味でも音楽はいいんだよね。言葉にできないけど表現できるっていう人もいる。そういう人たちにとってもいい。
演奏がラク、書くのがラク、話すのがラク。そういう特性は天職を見つけることと同じだと思う。
だから、いまやってる仕事は、イベントを企画して、出会いの場を多くするということ。やっぱり人が出会わないと何も起こらないから。ちょっとでもスペースがあって、人が出会えば、物事は動くでしょう。
――それが、今やっているワークショップやフェスのプロデュースなんですね。
そう。
年に一度は幼稚園に行って子どもたちに教えるんだけど、口琴を演奏したり、おもしろい声を出したりすると、みんな笑いが止まらなくなって、それだけで10分くらいもっちゃう。
そうやって即興の楽しみかたをまずは知ってもらおうと思ってる。
――フェスのほうもアプローチにこだわりがありますよね。「Jazz Art せんがわ 2018」のプログラムにある神出鬼没のライブ空間「CLUB JAZZ屏風」とか。
#4
「CLUB JAZZ屏風」ってなんですか?
メインのせんがわ劇場は、121席しかないから、外にも楽しめるものをつくった。
これは、3人くらいで満員のボックスなんだけど、誰が入ってるかはお楽しみ。出演者が入ってて、もしかしたら今回の目玉出演者であるピーター・エヴァンスを、1対1で見れるかもしれない。ただの屏風で、仕切ってるだけなんだけど、隠されると見たくなるでしょ(笑)。
NYでピーター・エヴァンスと一緒に演奏したときに、日本に来たいと言ってたから呼んだんだけど、半端じゃないスピード感でかっこいいよ。ソロ作品もつくってるんだけど、おれに捧げるって言って1曲つくってて、ヴォイスパフォーマンスをトランペットで模倣してる。それもスゴイ。
ピーター・エヴァンス。NYを拠点に活動するトランペット奏者、インプロヴァイザー、作曲家。
――これはファンじゃなくても強烈な想い出になりそうです。出演者にとっても(笑)。
超至近距離で、演奏する側も入った人も大変なの。眼の前で演奏をして、それを聞くから、どちらとも何も隠せない。
前に、谷川俊太郎さんが入ってたときもあったんだよ。
――谷川さんは、詩の朗読を?
そう。入場した人の生まれた日に関する、誕生日の詩を読んだの。
もちろん告知なしだし、誰がいつ入るっていうのはあんまり決めてないんだけど。
――出演も即興なんですね(笑)。
9月13日(木)から4日間開催する「Jazz Art せんがわ 2018」や、9月24日(祝・月)の「湯河原ジャズフェスティバル」とか、ほかにもあるんだけど、とにかく出演者が豪華。
これまでにもいっぱいアーティストを呼んでたから、海外では有名になってきちゃってて、今は出演を断るのが大変なの。断りたくないけどしょうがないよね。
それで、出演者が多くてわかりづらくなってるんだけど、カナダ・ケベックから来るルネ・リュシエって人もいて、日本ではまだ知られていないし、YouTubeにはあんまり情報がないんだけれど、めちゃくちゃかっこいいよ。『Le Tour Du Bloc』ってアルバムを聞いてみて。
モントリオール生まれのギタリストであるルネ・リュシエは、ケベックの現代音楽における重鎮。
――ググっても情報はあんまり出てきませんが、このアルバムは1曲目からかっこいいですね。
でしょ。
そのほか大友良英も出るし、谷川俊太郎さんや吉増剛造と並ぶ詩人の白石かずこさんも出演する。その日に読む詩を長い巻物に書いて来てさ、バサーッ! っとめくりながら読むんだよ。すげーかっこいいの。
そのほかも豪華だよ。せんがわ劇場は小さいから距離がすごく近いし。なるべく席数多くしてやるんだけど、行政がやってる劇場だから立ち見ができなくて、売れちゃったら見れない。
ってのもあって、街でも出し物をやってるんだよね。小さいのを逆手にとって、もっと小さいのをつくってやれって思ったのが「CLUB JAZZ屏風」。
プログラムをたくさんやるから宣伝が難しいんだよ。全体像が読めないよね。
#5
ターニングポイント
――ジャズ、即興、珍しい民族楽器、演劇型の音楽、詩の朗読、映像作家、パンク……、プログラムのバラエティーと濃度はすごいのに、なかなか商業的な意味では苦戦しそうですね。
こういうのは、NYでもみんな苦労してるよ。なかなか伝わらなくてお客さんが全然こないときもあるから。
それに、日本は棲み分けが激しいし。クラシック演る人はクラシックしかやらないとか、即興やる人はそれしかやらないとか。両方演る人が少ない。
ヨーロッパは両方演る人が多いからこだわりがなくて広いというか、オープンマインド。そういう雰囲気をもっと楽しんでもらえればいいなって思う。
大友良英や渋さ知らズオーケストラみたいに、世界中のフェスに引っ張りだこで活躍している日本人でさえ、日本ではあまり知られていない。海外で何か音楽的な事件があっても、こっちまで伝わってこなかったりするじゃない? そういう難しいところはあるよね。
――……。
だからといって、特色が出ないとつまらないのは劇場も同じで、求められていることだけでなく、自分たちの独自プログラムをやらないといけない。映画館の特集上映も大事だよね。
自分たちが本当にプッシュしたいものを興味を持ってやらないと、雑誌もウェブメディアも、ただ載せるだけではメッセージの力は弱まってしまう。
結局、自分のことを考えても、ホーメイと出会ったことで原点に立ち返って、即興のヴォイスパフォーマンスを探求しはじめたことが、ターニングポイントになったわけだから。
――だからこそ“超歌唱家”が誕生し、世界中のミュージシャンから信頼されるようにもなった、と。ありがとうございました。
※追記情報
巻上公一さんは、12月23日(日)に、代官山UNITで、ヒカシュー、POLYSICS、ZOMBIE-
そのほかセッションの一部は、池尻大橋のBPMで開催されたイベント『FRUE & BPM presents · ~Rhythm Sound and Magic~ feat. Billy Martin vs』のレポート動画でも確認できます。