「愛されたい」が恥になる社会で何が起きているのか

米Newsweekに掲載されたCarylyne Chan氏の寄稿が、いま静かに反響を広げています。米国で長く議論されてきた「孤独のエピデミック」を超え、「ラブレスネス(lovelessness)=愛の欠如」という新たな社会課題を提起した同記事。人に囲まれていても満たされない——その感覚に、思わずうなずいた方も少なくないのではないでしょうか。

「孤独」では足りない言葉

2023年、ヴィヴェック・マーシー米国公衆衛生局長官は社会的孤立の深刻な健康リスクを警告する勧告を発表しました。孤独が1日15本の喫煙に匹敵する死亡リスクをもたらすという衝撃的なデータは、世界中のメディアで取り上げられたことを覚えている方もいるでしょう。

しかしChan氏は、「loneliness(孤独)」という言葉が捉えているのは「一人でいること」の記述にすぎないと指摘します。職場にも家庭にもSNSにも人はいる。それでも、注意を向けてもらえない、覚えていてもらえない、自分が感じ取れる形で優しさが届かない——そうした「情緒的な空白」を表す言葉が、英語にはうまく存在しないのだと。

同氏が提起する「ラブレスネス」とは、壮大な恋愛感情の話ではありません。気づいてくれる愛、覚えていてくれる愛、促されなくても差し出される小さなケア。いわば「日常的な愛」の欠如です。

興味深いのは、この概念が「量」から「質」への転換を迫っている点でしょう。従来の孤独研究は、友人の数や社会参加の頻度といった量的指標で測定されてきました。けれど、ラブレスネスが問うているのは「つながりの中身」そのもの。2025年に米国の非営利団体AARPが発表した調査でも、45〜59歳の46%が孤独を感じていると回答しており、社会的役割が多い中年期にこそ情緒的な断絶が深まるという逆説的な実態が浮かび上がっています。

「愛されたい」を言えない文化

Chan氏の論考でもっとも鋭いのは、文化的な構造への切り込みかもしれません。

現代の米国社会では、ストレスや燃え尽きを語ることは広く許容されています。メンタルヘルスの重要性を訴えることも、もはやタブーではなくなりました。ところが、「もっと愛情がほしい」「もっと丁寧にケアされたい」と口にすることは、いまだに恥ずかしく、未熟で、弱いこととみなされる。自己充足を美徳とする文化のなかで、有能な大人は「より少なく求め、失望から素早く回復すべき」とされているからです。

この指摘は、日本に暮らす私たちにとっても他人事ではないように思えます。「迷惑をかけない」「自分のことは自分で」という価値観が根強い社会で、愛情の不足を訴えることのハードルは決して低くありません。恥とされた欲求は消えるのではなく、ただ見えなくなるだけ——Chan氏のこの言葉は、文化を超えた普遍性を持っているのではないでしょうか。

愛情は「移動」している

欲求が公に語られなくなったとき、それはどこへ向かうのか。Chan氏は、伝統的な恋愛や交際の形成が弱体化する一方で、情緒的親密さへの渇望が別の場所へ「移動」していると論じます。

ロマンスゲーム、架空のコンパニオン、没入型ファンダム、「ボーイフレンド」音声コンテンツ、パラソーシャルなクリエイターとの関係、そしてAIコンパニオン。こうした「媒介された愛情」の市場は、いま爆発的に拡大しています。Fortune Business Insights社の予測によれば、グローバルのAIコンパニオン市場は2025年の約377億ドルから2034年には4,359億ドル規模へと成長する見込みで、年平均成長率は31%を超えるとされています。

批評家はこれらを「逃避」や「社会的衰退の兆候」と見なしがちです。しかしChan氏は、より根本的な問いを投げかけます。何百万人もの人々がファンタジーに対価を払うのは、現実の能力が欠如しているからではない。現実が提供できなくなった感覚——「あなたにとって大切なことを覚えている」「理解されるために闘わなくてよい」——を求めているからだ、と。

日本における「推し活」の隆盛も、この文脈で読み解くと新たな意味を帯びてきます。推しが提供してくれる「気づいてくれる」「覚えていてくれる」という感覚は、Chan氏が定義する「日常的な愛」と驚くほど構造が似ています。これは単なるエンタメ消費ではなく、社会が供給しきれなくなった情緒的ケアへの、ひとつの応答なのかもしれません。

「愛のインフラ」という視座

もちろん、バーチャルな親密さのすべてが健全とは限りません。Chan氏自身も、操作的な設計や依存を助長するリスクがあることを認めています。しかし同時に、これらのツールが社会に実在するギャップを埋めている事実から目を背けるべきではない、とも主張しています。ツールを否定することは、その背後にある欲求そのものを否定することになるからです。

ここで考えたいのは、テクノロジーの役割の再定義です。AIコンパニオンやバーチャルな親密さのサービスを「人間関係の劣化版」と切り捨てるのではなく、「情緒的ケアへのアクセスを広げるインフラ」として設計する——そんな発想の転換が、これからの社会には求められるのではないでしょうか。

私たちが「孤独の時代」と呼んできたものは、実は「愛の届け方がわからなくなった時代」なのかもしれません。「愛されたい」という欲求を恥ではなく、正当なニーズとして認めること。そこから始まる対話が、孤独よりもずっと深い場所にある空白を、少しずつ埋めていくのだと思います。

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