廃墟の女王で、まさかのセコム。

摩耶山を下山し始めて約1時間、廃墟パートに足を踏み入れることに。ここからさらにディープなマヤワールドに入っていくのだが…。

15:15 人が地下へ消えていく…

心なしか参加者の間にも緊張感が漂う。そんななかたどり着いたのはひとつめの廃墟、摩耶花壇だ。

ケーブルカーができた翌年、大正15(1926)年に開業。木造3階建てで、1階が浴場、2階がレストラン、3階が宿泊施設だったという。1960年代に解体され、木造だった部分は撤去された。今は下室のコンクリート部分だけが残っている。

「当時はかなり流行したそうで、マヤカンはその影響を受けて作られたと考えられますね」

15:31 そしていよいよ…

マヤカンだ! ーーと、その前に。

まずは模型を使って、慈さんがマヤカンの歴史や建築などの説明をしてくれる。

昭和4(1929)年に竣工された摩耶観光ホテルは、食堂、浴場、余興場、客室などを備えた複合保養施設「摩耶山温泉(摩耶温泉ホテル)」という名前でオープンした。しかし、昭和15(1944)年、戦争によってケーブルが営業中止となり、客足が途絶えてしまった。

「米軍将校の遊興場として、ダンスホールにできないかって画策されたらしいんですけど、予算の問題で難しかったようです」

昭和35(1960)年に買い取られ、翌年から「摩耶観光ホテル」に。内装には、解体された豪華客船イル・ド・フランスの部材が使われ、レジャー施設として人気を博す。屋上のビアガーデンも好評だったそうだ。しかし、昭和42(1967)年、台風被害によりふたたび休業。70年代には「摩耶学生センター」として再利用されるも、平成5(1993)年ごろに閉鎖された。

「学生センターを利用された方が、よく“懐かしい”とツアーに参加されたりします。今日はいませんか?」

残念ながら今回のツアーではいなかったが、いつもなら1〜2人はいるのだそう。ガイドウォークには、廃墟マニアというより、この地に愛着を持った方がよく参加するのだという。

「阪神淡路大震災後は、ケーブルもロープウエーも止まって本当に人が入れない状態で。それ以降もどんどん崩落が進んでますんで、これもいつまで持つかわからないですね」

15:43 「廃墟の女王」の中へ

いよいよ、マヤカンゾーンへ。

マヤカンだーーーー!!!

マヤカンは、鉄筋コンクリート造4階建ての建築物。

斜面に建っているため、ここから見える部分は4階だ。4階は余興場でホールになっており、ダンスパーティーや講演会などが行われる多目的ホールだった。また、映画も上映していたという。

「正面のRの部屋は映写室でした。新聞の映画情報の欄には“摩耶観光ホテル”って載ってて、ディズニー映画もやってたそうです」

「ビアガーデンをやってたのはその向こうのL字型の部分。そこまで行くとめちゃくちゃ景色がいいんですけど、今は危ないですね」

南の部分がせり出していて、それゆえに「山の軍艦ホテル」と呼ばれたマヤカン。しかし、その部分は今特に崩壊がひどいそうで、非常に危険だそうだ。

「大声を出すのも危険なので、静かにね」

参加者は、崩落の危険性がある壁際から一定の距離を取りつつ、2階部分へ。静かな分、異様な緊張感が漂う……。

ついに3階部分へ到着。奥には客室があるという。

「『摩耶観光ホテル』っていう割に、部屋数は12〜13部屋だけ。ホテルというよりは日帰りの温浴施設みたいなもので、温泉に入って、大食堂でごはん食べて、映画観て、帰る。そんな感じでした」

慈さんは「ここに赤い絨毯があった」「自動販売機があった」と、ご自身の1975〜80年ごろの記憶を辿りながらガイドを続ける。頭の中ではその時の光景が鮮やかによみがえっているのだろう。

「秋に来たら、紅葉が綺麗ですよ。冬にはホール部分につららができるんです。屋根がフラットルーフで、水が全部下に行くから。季節ごとに表情を変えてくれるんですよ」

慈さんの説明を聞くうちに、ふと気づいた。

私はマヤカンをただ「廃墟」としか見ていなかった。ここで生まれ育った人たちには、大切な、美しい思い出の地なのだ。マヤカンだけじゃない、摩耶山も全部。それを人為的に補修するのでも壊すのでもなく、寄り添いながらともに生きていくこと。それが慈さんの活動なのではないだろうか。

「とくにマヤカンは廃墟の聖地として有名になって、オーナーさんだけでなく地元としても不法侵入に困っていて。公開したほうが安全が保てるんじゃないか、ってツアーを始めたんです」

慈さんは「廃墟でセコムついてるの、日本中でここだけじゃないですか?」と笑い、そして、締めくくる。

「道路なしで、この建物を作ったんですよ、当時の人は。そのパワーを感じてほしいと思います」

16:07 ガイドウォーク終了

完璧に魅せられた。そして圧倒された。

摩耶山が示す人間のパワーと、それが今も遺っているという事実。慈さんの人間味溢れるガイドは、摩耶山のそんな魅力に気づかせてくれた。

そして、慈さんのガイドは私たち自身の思い出を呼び起こす装置でもあったように思う。

慈さんのガイドで、摩耶山は見知らぬ遠い場所ではなく、私の、参加者の思い出の景色に変わった。そして突きつけるのだ。永久に続くものなんてない、そのことを知った時、私たちは何を考え、選び、そして遺していくことができるのかーー。

ミーハーな気持ちで参加したガイドウォークだった。だが、結果として私はそんな命題と向き合うことになった。新幹線の中で、生まれ育った町のことをゆっくり思い出しながら、私は東京へと帰った。

これにて、ガイドウォーク編は終了。次回は主催者である「摩耶山再生の会」事務局長、慈憲一さんへのインタビューをお届けする。

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。