まんなかを歩けるのが、一番しあわせなんじゃないかな。
ふと思ったんです。
「愛」と「愛情」は一緒のもの?それとも、べつものなの?って。
辞書で調べてもふんわりとしか理解できなかったので、まわりにいる人生の先輩たちに聞いてみることにしました。
今回は、第5弾です。
あなたにとって、
「愛」と「愛情」って何ですか?
35歳の編集者(既婚女性)Mさんの場合。
Mさん:うーん。言葉は違うけれど、意味はおなじような気がするなあ。愛と愛情に限らず、どの言葉も、誰かが大昔に意味を定義したり、自然発生的にうまれたり。それらが時代を経て脈々と定着してきているじゃない?それくらい曖昧なものというかね。
ただ、「情」という言葉に着目すると、愛は概念的なもので、愛情は、ダイレクトにこころを表現しているんじゃないかしら。愛情には、感情がくっついてくる。
ーー愛情は感情がついてくる、ってどういうことでしょう?
Mさん:思いやりの心が強い。「情(なさ)け深さ」かなあ。「情が深い」とか「多情」とか「情」がつく表現っていろいろあるけど、愛情はとくにエモーショナルなかんじがする。
ーー恋愛に愛情はある?
Mさん:あると思うよ。愛情って、いわゆる「好き好き」だけじゃないじゃない?それがいいのかもね。そうだ、ちょうど昨日ね、旦那さんと喧嘩して「今、好きと嫌いが両方ある」って言われて。
ーー旦那さんから?
Mさん:そう。わたし、喧嘩すると、ものすごく口が悪くなるから「そういうの大っ嫌い」って言われたの。「でも、それって言い換えたら、めちゃくちゃ好きってことでしょ?」って聞いたら「まあそういうことですよね」だって。まあ、それは、すごくよくわかってね。好きだけじゃやっていけないっていうか。
たとえば、すごく仲良い友だちって、いいところだけじゃなくて、だめなところも知ってるじゃない?「ただただ好きです」っていうだけじゃない。だめなところも全てひっくるめて受け入れられる心。それが、愛情な気がする。
ーー家族はもちろんだと思うんですけど、Mさんがいま、愛情を注いでいる対象ってなんですか?
Mさん:いっぱいあるよー。人だけじゃないしね。まずは、住まい。自宅の空間ね。
あとは、友人からもらったマグカップとか。基本的に、身のまわりには自分の好きなものしか置いていないけれど、なかでも人からもらったものはたいせつにしている気がするなあ。分身みたいなものだからかな?
むかし買った傷だらけの水筒も、ダメなところが愛おしいというか。いろんな思い出を共有すると手放せないよね。人とおんなじだね。
あとね、会話もたいせつにしているよ。
ーー愛情深い会話って、どういうものでしょう?
Mさん:うーん。思いやりのある会話、かな?相手を適当に扱わないこと。うんとね、知り合いが使っていた言葉を借りると「取りこぼさないようにする」とかかなあ。
たとえば、40人くらいのクラスを担当している先生がいるとして。その先生もひとりの人間だから、全員を平等には扱えないじゃない。でも、(あの子、ちょっとはみ出ちゃってるなあ)みたいなことには気がつくじゃない?そしたら、そこをすくい上げようとする、その心もち。
すくなくとも、身のまわりの人にはそうしようと思っているよ。わたしの前ではみんな平等だからね。一人ひとりみんなちがうから、なるべくフラットに見たいなあって。
ーー比較はしない?
Mさん:うん。それぞれ違うから、それぞれが「良い」としているものは比較できないよね。甲乙ではないと思う。
そんな風に接していくと、その場の空気が自然と心地よくなっていくのよね。それがわたしの愛情の示し方なのかも。仕事の場でもそう。立場が上だろうが、下だろうが、フラットに見るようにしているよ。
わたしは、いつでもまんなかにいたいなって思っているの。
ーーフラットに見ようと思ったのは、なにかきっかけが?
Mさん:20代のおわり頃に出会った、ふたりの男性かな。ふたりは同世代で、わたしよりうんと年上。それぞれ、独立した生き方をしていて、両極端なくらい、異なる嗜好性の持ち主だったの。平たく言うならば、格好つけたい人と、格好つけたくない人。
当時、3人でとある仕事をしていたのだけれど、ふたりは相性がよくなくてね。わたしは間に立って、それぞれとやり取りをする役割を担っていたから、できれば、3人で仲良くやりたいと願っていたのだけど、なかなかむつかしくてね。ふたりのことが大好きで、どちらも大切だったから、できるだけ中立でありたいと思ったのよね。どちらか一方に加担したくない、まんなかにいたいなって。
ーーいまの旦那さんはどういう人ですか?
Mさん:ふわっとしているように見えて、じつは、いろいろ見えている、わかっている人。ナメてかかると、ナメられる、みたいなね。ウソだけど(笑)物事のまんなかを捉えられる人。
ーーそれはMさんがありたいと思う姿ですよね。
Mさん:それまで極端な生活を送っていたから尚更そうかもしれないね。極端って、すごく楽しい反面、苦しいこともたくさんあるからね。こっちもあっちも知ったうえで、まんなかを歩けるのなら、それが一番しあわせなんじゃないのかなって。いまはそう思っているよ。
写真は山梨県にあるギャラリートラックスの窓。ここは、Mさんの思い出の場所なんですって。
そうそう。会話に愛情を注ぐっていう発想、いままでなかったなあ。でも、たしかに、愛情を注ぐ対象は人に限らないし。というより、この世に存在するすべてが、愛情を注がれてしかるべきものなのでしょうね。
それが、会話の場合、「この人、はなしやすい」「この人ちゃんとわたしのはなしを聞いてくれてる」と相手に感じてもらえたとき、はじめて、愛情のある会話として成立するのかな。
今回協力してくださったMさん、とってもとってもありがとうございました。
トゥ ビー コンティニュウド