「そんなのどうでも良くない?」Z世代の不安について、東大講師・舟津昌平さんに聞いてみた
書籍『Z世代化する社会―お客様になっていく若者たち』が話題の、東京大学講師・舟津昌平さん。
本の中では、舟津さん自身が学生とのやりとりを通じるなかで感じたさまざまな「若者論」についてコミカルにまとめていますが、その真意や背景についてTABI LABO編集部からもいくつかの問いを投げかけてみました。
いま、大学にいるZ世代って、どんな特徴があるんですか?
奈良県生まれ。京都大学大学院経済学研究科博士後期課程を修了、博士(経済学)を取得。23年10月より現職。著書に『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房、日本ベンチャー学会清成忠男賞・企業家研究フォーラム賞受賞)、『組織変革論』(中央経済社)、『Z世代化する社会』(東洋経済新報社)など。
Z世代は
不真面目で、真面目
最近のZ世代の学生を見ていて、特徴的だと感じることはありますか?
授業への出席という観点でいうと、「グループ行動」がますます軸になっている感覚はあります。「本当は出たくないけど、友だちが出るから」とか。この逆もあります。「授業は面白いから出たいけど、友だちが嫌がるから来づらい」とか(笑)。
この強迫観念がけっこう根深い。グループから外れることを、以前の学生よりすごく恐れている感覚があります。言うなれば「不真面目な真面目さ」なんですよね。律儀になろうとするところがズレているというか。
どのような背景があるのでしょうか?
大きく2つあると思っています。ひとつはSNSのグループトークなど、いわゆるコミュニケーションツールの影響ではないでしょうか。中高生の問題としてもよく話題になりますが「見てる・見てない」「リアクションする・しない」などのバランスがとても難しく、ひと晩で数百件の未読がたまっている、なんてこともある。家にいても、ずっと友達関連の発信を受けている。つまり「ひとりの時間」がないんですよね。
たしかに、どのグループに所属しているか? が良くも悪くもオープンになっている印象があります。1軍2軍とか、陽キャ陰キャのようにポジション化する傾向も強まっていますよね。
そうなんです。そしてもうひとつは「大学の高校化」があると考えています。高校と大学の境目がどんどんなくなっている。高校のクラス制度は、何か問題が起きたら担任も分かるような管理と監視が前提の組織です。
大学は本来そういうものではなかったけれど、最近は「ファーストイヤーゼミ」や「入門演習」を必修科目にして、まずは学生たちが “大学に来れる” ように設計されている。そこで友だちを作るように意図的に用意されているわけです。もちろん大学としてはドロップアウトを防ぐ目的もありますが、海外の大学のように人種や収入の格差による不幸なケースを減らすためというより、日本では「監視・管理」の意味合いが強い。
現在は大学でも保護者会に類する活動が増えていますし、保護者対応がひとつの大きな仕事にもなってきています。「うちの子、学校来てますか?」という問い合わせも普通にあるくらいですし、大学も問い合わせに丁寧に応えようとします。
大学側としては、学生を管理・監視することで両親の満足度を高める必要があると?
大学が徐々に営利組織化(ビジネス化)していることは否定できません。大学にとって学生たちの両親はお客様、つまりスポンサーなんですね。スポンサーの満足のために、できるだけ懇切丁寧に対応しようとする動きだという理解です。
そうなると学生側も「親が言うから」「親に悪いから」という後ろめたさで、本人のモチベーションにかかわらず大学に来るようにはなる。昔は、親に言われたら逆に反発したり、むしろ学校で親の存在すら表に出したくない時代があったと思いますが、逆にZ世代は親の存在感をわりと普通に出してくる。
自己があるわけではないけど、行動は常識的。不真面目だけど、真面目。そんな印象を持っています。
親離れ・子離れできない
「不安な社会」
現在は「親子仲がいい時代」とも言われますが、一方で親離れ・子離れができていない時代とも言えますか?
大学で働いていると、正直「どこで離れるんだろう?」と感じることもあります。大学どころか、就活でも保護者が関わってくるのがスタンダード化していますから。大学生も親離れしないし、保護者も子離れしない。
その根源は、やはり「不安」から来ているのだと思います。
「それで安心できるならいいじゃないか」という意見もあると思いますが、不安の解消しか動機になっていない、「安心するため」以外の意味が見いだせないことが問題だと感じています。
その不安には、どのように向き合い、解消していくべきなのでしょうか?
不安って不思議なもので、あまり根拠なく生まれたり、なくなったりします。
例えば、ひとりで旅行へ行ったことのない学生がいて、どうしても不安なので親についてきてほしいと思ったりするわけです。でも実際に行ってみると意外と大丈夫で、慣れるとそんなのどうでもよくなってきたりする。
あえてひとりでほったらかしておくことで、不安って勝手になくなってくるものでもあるんです。ところが今の社会では、「何か起きたらどうするんだ」というリスクを恐れて、不安と向き合うチャンスを奪っているんですよね。
親子ともに、その機会を逃しているのですね。
不安をなくすには、やはりチャレンジするしかありません。例えば大学の授業で手を挙げるって最初は不安だと思うんです。最近の学生の「嫌いな授業」の上位に「当てられる授業」が挙がるくらいです。
変なことを言ってしまったらどうしよう? 友だちから笑われたらどうしよう? と、本気で嫌がっているし、本気で怖がっているんだなと感じます。
ただ私も講義のなかで「手を挙げましょう」「当てたら喋ってください」とやり続けるわけです。そうすると、最初は本気で嫌がっていた学生も、最後のほうには慣れてどうでもよくなってきて、「最初の頃のあの不安は何だったんだ?」となるわけです。
その際、チャレンジを促す側が意識すべきことはありますか?
私が大事にしているのは、手を挙げて話してくれた意見を絶対に笑わないし、詰めたりしないことです。尊重し、発言すること自体が何よりポジティブなことであると評価することです。管理者がウソをついたら、敏感な彼らにはすぐにバレます。
若者はとにかく適応も早い。だからこそ多くの不安にすぐに慣れることができるんじゃないかなと思っているんです。本当に若者はまっさらで、適応力があり、柔軟だと思います。だからこそ信じて負荷をかけてあげれば、あっというまに慣れます。
「そんなのどうでも良くない?」
テキトーに返すことの価値
「手を挙げる・挙げない」については、こんな話もあります。ある学生は、よく手を挙げてくれると思っていたら、こんな相談をしてきたんです。「私はみんなが手を挙げないとすごく不安になり、沈黙に耐えられず手を挙げてしまうのですが、それがすごくつらい」と言うんです。思い出して家で泣いてしまうこともあると。
それに対して考えた結果、私は「そんなのどうでもいいじゃないか」と、ある意味テキトーに返したんです。手を挙げること自体はポジティブだから評価するし、あなたが喋りたいと思ったなら喋ればいい、と。そこで「つらかったね、もう挙げなくていいよ」と配慮するのも違うと思いまして。
そうしたら、いつのまにか慣れていって、その学生のなかでもだんだんどうでもよくなっていったようなんです。不安ってそのくらい根拠なく生まれるものですし、若いうちはそういう些細なことで悩んでしまうものです。あえて多感な学生たちに「そんなのどうでもいい」と伝えることで、かえって不安が消えていくということは、僕自身の経験を通じてもそこまで間違っていないかなと感じます。
もしかしたら、過剰なほど「寄り添い型」の社会になっているのかもしれませんね。
為末大さんが「なにかあったらどうするんだ症候群」と呼んでいましたが、大学にとって学生とその保護者はお客様になるので、徹底的にケアしなければいけないという「フィクション」が当たり前のように浸透しているのかもしれません。
ちょっとでも相談が来たら全力で対応するような、そういうタイプの熱血な同業者は少なからずいます。その人が自分の意思でやる限り、良いことでしょう。
ただカスハラ(カスタマーハラスメント)という言葉について最近になってやっと理解が進むようになりましたが、冷静に考えればすべてを提供者の落ち度と捉えるのはとても危険なわけです。お金を払っていることだけを理由に、一切の不満を与えてはいけないわけがない。お客様のご要望にすべてお応えするというのは、理念としては崇高ですが、限りなく非現実的です。
その文脈でいくと、Z世代の学生たちや、その両親が抱える「不安」へのケアに対しては、ただただ管理・監視のなかで解決していくのではなく、「お客様だとして、どう対応するべきなのか」「卒業後も見据えたとき、それはふさわしい対応なのか」といった、もっと根源的な議論がなされるべきだと感じています。
本記事の続編「Z世代との働き方」については、
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