「逆張りでOK。ハッピー優先でいい」──投資家・阿部修平のマインドが令和に刺さる!

「専務に会いにきたんじゃない。社長に会わせてくれ」。

就活の面接でこう言い放ち、全部合格をもらった人物がいます。冗談みたいな話ですが、日本を代表する独立系投資会社「スパークス・グループ」を率いる阿部修平がその人。

昭和という時代に「逆張り」や「推し活」のような、“Z世代的マインド”でキャリアを切り拓いてきた彼の半生は、正解のない時代を生きる私たちZ世代にも驚くほどリンクするものがあるんです。

「私活」全振りでたどり着いた
あこがれのアメリカ

日本全体が復興と成長に向かう希望に満ちた1954年、北海道・札幌に生まれた阿部さん。実家は鉄工所を営み、エネルギーあふれる両親のもとで育ちました。そんな少年時代の心をつかんだのが、テレビに映るアメリカの暮らしだったそうです。

アメリカの家庭には冷蔵庫があってさ、開けるとオレンジジュースがあって。日本では考えられないよ。ちょうど電化製品が普及し始めるっていう時代だったから。テレビから流れる音楽もビートルズとかアメリカのミュージシャンでしょ。もうさ、憧れの世界だったよね。

アメリカの文化とギターにのめり込んだ青春時代を過ごし、大学入学後は夜学で英語を猛勉強。3年生で必要な単位をすべて取りきって、ついにアメリカへ。ボストンの州立カレッジへと入学を果たします。「自分の進みたい道に進む」という意志に突き動かされた結果でした。

授業は全部英語だしさ、もうずっと勉強だったよね。振るい落とされないように必死だった。でも、あるときバラバラだった知識が全部つながって、機械みたいに音を立てて動き出したんだ。点が線になる感覚だよね。

勉強のおもしろさに目覚め、将来は研究職も考えていたという阿部さん。帰国後に始めた就活では、耳を疑うほどの個性が炸裂。想像の斜め上をいくユニークなエピソードが飛び出します。

最初は中小企業中心に受けたんだよね。面接で名刺を見るとさ、専務とか常務って書いてあるじゃない。でさ、「僕は常務に会いにきたんじゃない。社長に会いたい」って言ったんだよ。おもしろいやつだな、って全部合格よ。

最終的には父親のアドバイスもあり、野村総合研究所に入社。その2年後、思いがけない転機が訪れます。野村證券のニューヨーク支店への転籍です。

二つ返事で再びアメリカへと渡ることを決めた阿部さん。厳しい競争環境の中で、機関投資家向けに日本株を営業する仕事に就くのですが、ここから阿部さんのキャリアは「自分を表現する舞台」へと変わっていくのです。

迷ったらハッピーな方へ
「逆張り」がマイルール

1980年代初頭、まだ「グローバル投資」という概念すら浸透していなかった時代です。赴任先のアメリカでは、日本株をアメリカ人投資家に営業するポジションに。しかも、いきなりロッキー山脈の東側全域が担当というんだから、かなりワイルドな環境だったんでしょうね。

上司や先輩から細かく指示があるわけじゃないからさ、自分で考えて動くしかなかったよ。

銘柄を紹介するだけでは通用しないと感じた阿部さんは、自らポートフォリオを組み、ストーリーで価値を伝える独自の営業スタイルを確立していきました。

野村のNY行かなかったら全く違った人生。そういう一つ一つが全部偶然じゃない?だから今の若い子たちにも、あんまり先のこと読まずにその時いちばんハッピーなことをやりなさいと言いたいね。いい悪いよりも、自分が楽しいかどうかでいい。

結果として、赴任1年目でチームのトップセールスに。前例がないからこそ自分の信じるやり方を貫く。それは、周りと同じじゃ意味がないと考えるZ世代の「逆張りマインド」と重なります。自分の“おもしろい”を信じて動いたからこそ、チャンスをつかめたのかもしれません。

資本金1ドルからの挑戦
「感性」をカタチにできる?

アメリカで3年、キャリアが軌道に乗り始めた頃、UBS銀行の知人から独立を提案されます。半年悩んだ末、資本金わずか1ドルで会社を設立──阿部さんの新たな挑戦が始まりました。

太平洋にゴムボートで漕ぎ出すような覚悟だよね。誰に聞いても「やめとけ」って言われたし、今考えても確率的には上手くいかないだろうな。

けれどこの挑戦、必ずしも“無謀”ではなかったようです。仮に失敗しても、これまでやってきたことならば人並み以上にできる。それをまた始めればいいという、投資用語でいう「安全余裕率(マージン・オブ・セーフティ)」が心にあったから。

見通しがなくても、やってきたことを信じて動く。ただし、一か八かの賭けではなくリスクを抑えながら進む。それは、感性をベースにしながらも、現実をきちんと見据えた阿部さんらしい意思決定。そして、こうも語ります。

「感性」って、単なるひらめきじゃないよ。思ったことを“形にする力”。動くことでしか未来は描けないんだよ。

そうして踏み出した一歩が、やがて世界の投資家に波紋を広げることになるのでした。

ソロスが1億ドルを託した男
最強スキルは「考える力」

1985年冬、1本の電話が運命を変えました。独立後に書き上げた投資レポート『Takeover Opportunities in Japan』が、あの大物投資家ジョージ・ソロスの目に留まり、「ぜひ直接話したい」との申し出があったのです。

翌日オフィスを訪れ、必死に投資アイデアを伝えると、ソロスは「スパークを感じた」と即断。その場で1億ドルの投資が託されたそう。

あれは驚いたね。1日待ってもらって契約書を作って持っていったんだ。相場を知らなかったから契約料50万ドルって書いたらさ、ぱっと見て、「あ、わかった。前払いする」って。飛び上がるほど興奮したよ。100万ドルって書いときゃよかったな(笑)

こうして、「人生最大の転換点」と振り返る、ソロスとの投資アドバイザー契約は3年続くことになるのです。

しかし、その後は「WHAT DO YOU THINK?」と問い続けられる、張りつめた日々でした。知識や学歴ではなく、「キミ自身の考えを聞かせてほしい」という真剣な問いかけ。曖昧な答えや言い訳は一切通用しない、即座に判断できる人間だけが生き残る世界です。

「自分はどう考えるか」を常に問われた。投資っていうのは、未来に対して“意思”を持つことなんだと理解したね。

でも、それこそがソロス流の哲学の核心。必要なのは知識よりも、視点と仮説を持って考える力。情報過多の時代を生きる私たちにとっても、AIでは代替できないスキルとして刺さる話です。

最後は暇を出されるかたちでクビになっちゃったんだけど、そのおかげで新しい船出を切れた。人生の大きな糧となったし、投資家としての土台が築けた3年間だったね。

元祖「推し活」
数字よりも“意味”に投じる

ソロスの元を離れることになった阿部さんは帰国を決意。アメリカでの経験を活かし、現在のスパークス・グループの前身にあたるスパークス投資顧問を創業させるのです。都内のマンションの一室で、再びゼロからのスタートでした。

数字だけじゃダメ。現場に行って、自分の目と耳で確かめる。「この会社はなぜ存在しているのか」それが大事なんだ。

個別企業調査を徹底して経営者に会うのは、単なる数字の羅列では測れない、企業の意志や存在する意味に深く共感できるかどうかという感覚を大切にしているから。

誠実であることは昭和だろうが令和だろうが、“何世代”でも大事。仮にものすごくお金を儲ける可能性が高かったとしても人を騙して儲けていたり、その恩恵に加担する投資をしちゃあいけない。究極的には“意味”だよね。やっていることの意味が問われる。

利益ではなく、“共感”に投資する。その姿勢は、今日で言うところの「推し活」そのもの。

ちょっと上を向いて進もう!
正解より大事なのは「納得感」

徹底した現場主義と独自のアプローチで、日本を代表する独立系運用会社へと成長したスパークス・グループ。「投資とは、お金を増やす手段ではなく、未来を形づくるための意思表明」という阿部さんの哲学は、今も一環しています。

「未来創生ファンド」や「日本ものづくり未来ファンド」を通じて、宇宙やAIといった先端領域への投資を展開し、日本の製造業の次世代を支え、技術と雇用の持続性を後押し。近年は再生可能エネルギーや水素事業といった社会の根幹にも取り組み、資本を未来をつくる力へと変える挑戦を続けています。

ベリーエキサイティングタイム。今は大チャンスだよ。変化する時はいつも投資家にとってはおもしろい。こういう時におもしろいと思えるような企業を見つけてくるのが投資家の仕事。

このように、変化の激しい現代をものすごく大きな転換点だと評する阿部さん。では、私たち若い世代が、そうした時代を生き抜くヒントはどこにあるのでしょう?

今を一生懸命やるってことだよ。全部に意味があると思ってさ。ちょっと上を向いてまっすぐ歩くこと。王道を行きなさい。上すぎてもダメだよ、すぐに躓いてしまうから。メインストリームの見つけ方は、好きなことでいい。

先が見えない時代に、自分の中の「納得」を頼りに進む。間違えたり迷ったりしながらでも、止まらず動き続ける。それが、未来へのいちばん確かな投資なのかもしれませんね。

 

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