山を愛し、守った男。「ジョン・ミューア」の人生とその言葉

2016年から8月11日が祝日になりました。何の日?山の日!「内閣府WEBサイト」には、その趣旨として、こんな文言が掲載されています。

「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」

ってなわけで、ここでは、山を愛し、守ったジョン・ミューアのことを少しだけ。“山好き”の強い情熱に感化されたことはあるかもしれません。100年以上前にも、こんな人物がいました。

「自然保護の父」
ジョン・ミューア

太陽が山々と交わす挨拶は、
なんと輝かしいものだろうか!

ヨセミテ公園にある340kmある遊歩道「ジョン・ミューア・トレイル」は、彼の功績を讃えて名づけられました。その他、グランドキャニオン、セコイア、マウントレーニア、ペトリファイド・フォレストなど、多くの国立公園制定に携わり、「国立公園の父」とも呼ばれています。

彼が設立した環境保護団体「Sierra Club」によると、発明家、冒険家、植物学者、地質学者、作家、と様々な経歴の持ち主だったミューアは、1838年スコットランドで生まれたのち、11歳でアメリカ西部へと家族と共に移住してきました。

働き者の父親に育てられ、博識、かつ優秀な木工の技術者となった彼でしたが、29歳のときに仕事中の事故によって角膜を損傷し、1ヶ月ほど失明を経験。幸い視力は回復したものの、技術者として将来を考えなおすきっかけになりました。書籍『The Wisdom of John Muir』には、こんな一節が。

太陽が照らすカリフォルニアの谷。

高峰から眺める日没前後の色。

光が海面を銀色に煌めかせ、川や湖をさっとかすめる。

滝からスプレーのように溢れる水しぶきの虹彩。

眩しく光る氷山の移り変わるアングル。

氷河の谷に溢れる光。

無数の星のように輝く雪。

深く、透明な空気に包まれた山頂で見る星空。

それが私の暗闇を満たした光だった。

視力を失った時
目に浮かんだのは自然だった

 

これを転機に、彼は旅に出ることに。インディアナからフロリダへと1,600kmを超える距離を歩き、海を渡り、世界中を訪れた彼。1868年にはサンフランシスコへと上陸し、シエラネバダ山脈とヨセミテ渓谷の美しさに魅了されます。

アメリカ合衆国国立公園局(NPS)によると、山々を実際に見て歩き、キャビンを立ててそこで寝泊まりするようになった彼は、ガイドなど複数の仕事をしながら、その魅力を記事化して新聞などに寄稿していました。

実際にそこに暮らすことが
学説を覆す発見に繋がった

自主的な調査を進める中、ヨセミテ渓谷が氷河によって作られていたことを実証し、それまでの学説を覆すことに。

ほかにも、アラスカ・グレイシャーベイを発見し、湾の後退を指摘するなど、自然界に起きている問題をその目で確かめては、研究記事を多数執筆していきました。

そうして環境保護を訴え続けた結果、1890年にヨセミテが国立公園として制定。その後の国立公園制定や、当時の大統領とともに自然保護政策の原案をつくることにも繋がっていきます。

自然と心を通わせて、
余計なものを取り払おう。

山に登って、木々の中で時間を過ごせば、
魂をキレイに洗い流せる。

その目で見て
良さを知って欲しい

自らが自然に身を置いて、その解説者となったジョン・ミューアの考える環境保護は、立ち入り禁止などによって人を遠ざけるものではなく、積極的に触れ合い、良き理解者を育む活動の基礎になっているようです。

その発言や執筆記事は、様々な場所で紹介されています。今となっては一般的かもしれませんが、100年以上も前から訴えられていたことなんですね。

疲れ果てた都会の住人たちは、
次第に気付き始めている。

“山に向かうことは、故郷に戻ること”。

自然は必要不可欠なのだと。

彼は晩年、ヘッチ・ヘッチー渓谷のダム化計画に対する反対運動に参加していました。が、残念ながら敗北。その翌年の1914年、病床に伏したままその人生に幕を閉じました。

そこには、ヨセミテにも劣らない素晴らしい渓谷があったとされていますが、今では貯水地に。

とはいえ、この運動が多くの人々の行動を促したことで、国立公園局の設立や、国立公園内のダム建設を制限する法改正に繋がったとも言われています。悔しさが残る最後でしたが、結果的には山を守るために多大な功績を残した人物だったというわけです。

山に登る理由は
今も昔もシンプル

山が呼んでいる。
私は行かねばならない。

キレイな景色を見ていたいとの思いから、環境保護に一生を費やしたジョン・ミューアの人生と言葉。その偉業の数々には驚きますが、動機は至ってシンプルなのでした。

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。