年末の風物詩「第九」演奏は、捕虜収容所から始まっていた。

何気ない一日に思えるような日が、世界のどこかでは特別な記念日だったり、大切な一日だったりするものです。

それを知ることが、もしかしたら何かの役に立つかもしれない。何かを始めるきっかけを与えてくれるかもしれない……。

アナタの何気ない今日という一日に、新しい意味や価値を与えてくれる。そんな世界のどこかの「今日」を探訪してみませんか?

日本で初めて「第九」が演奏された日

今年も残すところ、あと213日。

カウントダウンには時期尚早ではありますが、年の瀬といえば、日本では「交響曲第9番 ニ短調 作品125」。通称「第九」。

これは、戦後まもない1947年12月に日本交響楽団(現・NHK交響楽団)が実施した、3日間連続「第九コンサート」が大好評。そこから“年末は第九”が定着したんだとか。

メロディもテンポもまさしく「歓喜の歌」は、いまや誰もが知るところですが、日本における第九の歴史を紐解いていけば、新しい年へと向かう高揚感とはまったく別の、奇跡の物語が存在しました。

まず、日本で初めて「第九」が演奏されたのはどこだかご存知ですか?

コンサートホールでもなければ、音楽堂でもありません。それは1918年6月1日のこと、場所はドイツ兵の捕虜収容所だったのです。

第一次世界大戦期、徳島県鳴門市(当時は板東町)に開かれた「板東俘虜収容所」。ここは、日本軍の捕虜となったドイツ帝国将兵およびオーストリア=ハンガリー帝国の将兵約1000人がおよそ3年ほど収容されていた施設です。

のちに“奇跡の収容所”と称えられる板東俘虜収容所で、いったいなぜ第九が演奏されることとなったのでしょう?

その話の前に、同収容所にどんな特徴があったかをご紹介。

当時の日本では、敵対する国の捕虜であっても暴力や非人道的な扱いの一切を禁じていたそうです。 そして、この命を真摯に守った人物こそ、陸軍歩兵中佐で収容所所長の松江豊壽(まつえとよひさ)でした。

松江は捕虜に対する公正で人道的、かつ友好的な態度で接し、捕虜たちの尊厳と自主性を尊重。俘虜収容所でありながら、ドイツ人捕虜と日本人との交流を生み出していきます。

もともと職業軍人が1割にも満たなかったことから、松江は彼らのスキルを活かせる工場や商店を次々と収容所内に設置していったそうです。ある者はパンを焼き、ソーセージやベーコンを作り、またある者は専門知識を活かした高度な技術力で橋の建造したり、酪農技術を日本人へと伝えました。

こうして、捕虜でありながらも日本人との文化交流が盛んとなった板東俘虜収容所。そのなかで開かれたのが「第九」の日本初演でした。

指揮者で軍楽隊長のヘルマン・ハンゼン率いる楽団は、楽器や編成など不完全ながらも男性のみによる男声合唱で第九を演奏。日本の空に初めて歓喜の歌が響き渡りました。

そのエピソードは2006年『バルトの楽団』として映画化。バルトとは、ドイツ語で「ひげ」を意味し、松江やドイツ人捕虜たちが蓄えていたそれをイメージしてのものだそうです。

戦争、そして捕虜という悲しみのなかで敵・味方関係なく「歓喜」を享受した、人々のものがたり。機会があればぜひご覧になってみてください。

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