朽ちたトーテム・ポールのなか、頭蓋骨のくぼんだ目が見据ていた先
カナダ北西に浮かぶハイダグワイ──。
そこは、1万年以上前から先住民ハイダ族の暮らす離島。文明から一歩距離を置いた手付かずの自然が残るこの土地に写真家・イラストレーター上村幸平さんは移住を決意しました。
「自然との関わりの中での人間らしい営み」をテーマにZ世代の価値観で捉える最果ての地。自然とともに生きる人々を追う連載企画です。
春のよく晴れた日に、僕はとある廃村を歩いていた。ヤーン村は僕の住むマセット村から入江を挟んで対岸に位置しており、現在では水路でしかアクセスできない場所である。19世紀後半「天然痘」の大流行で、ハイダ族の大多数が失われた際に打ち捨てられた村のひとつだ。
かつてはハイダ族のなかでも有力な村だったが、150年以上前に村人が姿を消してからはレッドシダー(西洋スギ)やスプルース(トウヒ)が支配する、厳かな森と化している。木々たちは大きく手を広げるように枝葉をめいいっぱい伸ばし、光溢れる季節を存分に堪能している。
ここで生活を営んでいた人々の痕跡を求めて、レインフォレストに足を進める。ひとりで道のない場所にいる時には、自然と方向感覚が研ぎ澄まされる。海の波音と太陽の位置でおおまかな自分の位置を把握しつつ、苔むした森に分け入っていく。
数時間、木々の中を彷徨ったが目ぼしいものは特に見つからなかった。雨が多く、代謝の早い温帯雨林である。やはり、すべては土に還ってしまったのだろう。潮が変わらないうちにカヤックを漕いで家に帰ろう──そう思って歩いてきた道を戻っていると、妙なかたちをした木々が目に入った。
白く色あせて中身の朽ちた西洋スギだ。2メートルから5メートルほどの高さのものが一定の間隔を開けて並んでいる。おかしなことに、それらの木々は根を張っていない。まるで、木の幹がそのまま地面から生えているようだ。
はっと息を呑んだ。これは、トーテム・ポール「だったもの」だ。
町や博物館に立てられているハイダ族のトーテム・ポールは、意匠を凝らした巨大な彫刻作品である。文字を持たない世界にあって、ポールは一族の歴史やアイデンティティを記す文書的存在でもあった。
それが気の遠くなるような年月の間に風雨にさらされ、目の前のポールたちはすっかり朽ちた木片となってしまっている。穴のようなものが等間隔に開けられている一部分が、唯一、人間の手が入ったということを示す証拠。あるものには花が咲き、別のものは苔に完全に覆われている。ポールを割るかのように生えた高さ40メートルのトウヒの木が、ここに流れた時間の長さを静かに物語っていた。
朽ちたトーテム・ポールへと近づき、中を覗いて思わず声が出た。下顎のない頭蓋骨のくぼんだ目が、こちらをじっと見返している。
ハイダ族は様々な意味合いでトーテム・ポールを作ってきた。族長の襲名や「ポトラッチ」なる祭儀の開催を記念するポールもあれば、一族の紋章を刻んで表札のように家の前に立てたりもした。なかでも興味をそそるのは、「モーチュアリー・ポール(死者のポール)」である。族長やその家族といった高名な人物が亡くなると、彼らは海の見える位置に立てられたポールに埋葬された。遺体を薬草に包み、スギの木箱に収めてポールのてっぺんに据え置いたのだ。
今にも倒れんとする「死者のポール」の中の骸骨。その吸い込まれそうな目を僕はしばらく見つめていた。不思議なことに、恐怖のような感情はなかった。瑞々しい生命が溢れる森林と、とある人物のいのちの跡。一見相反するものが、何の違和感もなくここでは共存している。
「街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ」
写真家・藤原新也は、その劇薬的な著書『メメント・モリ』の序文にそう著した。
死は忌み嫌うもの、打倒すべきもの、見たくないもの、見るべきでないもの──。そのような誰に作られたかもわからない倫理規範が、「死」というものを社会からたくみに隠している。死が人間から引き離されることで、生というものの質感も失われている。
この森で出会った死──おそらくはずっと昔にこの村を治めた人物なのだろう──は、生死というのはあくまで巡りゆくサイクルのひとシーンにすぎないのだと語りかけてくる。お前もいつかわたしのように、大地に還るのだ。そのことを忘れてはならない、と。
苔に覆われたその骸骨の“視線”は、偶然なのか目の前の海に向いていた。100年以上の間、まだ人々がこの場所にいた時のこと、村人が涙ながら故郷を捨てた時のこと、そして僕のように時々ふらりとやってくる訪問客をずっと見守ってきたに違いない。
僕は帽子をとり、うやうやしく手を合わせた。ここまで導いてくれてありがとう、そう心の中で唱えながら。
『最果ての地、ハイダグワイからの手紙』
バックナンバーはこちらから
👇👇👇
👇👇👇
👇👇👇