なぜか心が還る場所。第二のふるさとに「沖縄」を選んだ人たち

空港を出たときの温かい風を受けて休日モードは一気にON!両手を広げて胸いっぱいに空気を吸い込んだのはいつぶりだろう…なんて考えているうちに、地元に帰ってきたときのような安心感に包み込まれる。

もう何度行ったかわからないけれど、住んでいる人から見れば、旅行者がまだまだ気づいていなかった魅力があるに違いない。そこで、3人の移住者に話を聞いた。

暮らす場所を選びなおすのは大変なことだ。仕事や友だち、お金のことだって、心配事を数え始めればキリがない。島人と観光客、そのどちらの視点からも沖縄をみることができる彼らは、いまどんな場所だと感じているのだろう?

上原さんは、長野県で生まれ、東京都で育ち、15年以上人事(採用・育成)に関わる仕事に携わっていた。2012年に那覇市へ移住。島時間を届けるために、キャンドルをつくったり、体験教室でつくりかたを教えている。

「“マブイ”という言葉を知っているでしょうか。沖縄に来て、タクシーのドライバーさんに過去のバタバタを話していたら、『マブイ(魂)を拾いに行かなきゃね。安定させなきゃね』って言われたんです。

東京でそんなことを急に言われたら驚くじゃないですか。でも、ここでは違って見えるんです。繋がりを大切にしている精神が、文化として根付いているからかもしれません」

「遊園地のような場所はないけれど、みんなが参加して胸が躍るような時間を過ごせるところが素晴らしいなって思うんです。三味線を弾いたり、歌ったり、踊ったり、遊びを生み出して楽しもうという文化があります。

カチャーシーを踊っているおばあは、『音が流れると自然と体が動き出すって反応が遺伝子の中に入っちゃってるんだろうね』なんて言ってました。そうやって、人と人が繋がっていける仕組みが自然にできているんです」。

「20代から東京でガツガツ働いていて、電車や職場で倒れてしまうような慌ただしい生活を送っていました。

企業コンサルタントとして職場環境づくりに心血を注いできましたが、震災を機に状況が一変しました。それまで忙しくご依頼を頂いていた仕事が、一ヶ月分突然まっさらに。連絡しても保留の連続。ああ、自分のやってきたことは必要とされていないのだと、衝撃を受けました。

地震のときは、交通網が閉ざされ、自宅まで十時間歩いたのを覚えています。子どもを保育園に迎えにいけたのも夜中の一時。それから、もっと地に足をつけて助け合う関係をつくって、必要とされる仕事をしたいと思うようになりました。いまの自分には何ができるんだろう?と。

いろいろと模索した結果、自然を大切にした暮らしや、人と人が共鳴し合ったり、自分の大切な原点に戻れる時間を感じてもらえるように、キャンドルづくりの体験工房を立ち上げることにしました」。

「東京は、改札をくぐって、電車に乗って、降りて、となにかとプロセスが多いでしょう。ここなら、15分圏内に必要なものは揃っているからそんなこともありません。自然は目に入るし、時間の流れもゆるやか。

だから、二週間くらい滞在できるといいんですよね。ある人は、一箇所のお店にじーっと座ってゆっくりしていたら、この土地の魅力がわかってきたと言っていました。そこにいる人たちと話したり、あるいは何もしなくてもいいんです。

変わったのは、時間の使い方です。どんなことを、誰と一緒に、どう過ごそうかって、いつも考えています。朝は、ゆっくりと子どもと接したり、海をボーッと見ながら過ごしたり。東京のカフェでゆっくりしていても、流れる時間はまったく違うものだと思いました」。 

谷さんは、千葉県柏市で生まれ育ち、千葉県内で多国籍雑貨屋を一時は4店舗経営しながら、イベントオーガナイズなどに携わっていた。2011年から姉妹店を那覇市にオープン。2012年に移住した。

「観光ではじめて沖縄にきたのは16年くらい前。驚きました。物価は安く、アメリカを感じるところがあり、琉球王国の歴史もある。自分が知っていた日本とぜんぜん違うなと、どんどん興味がわいてきました。

千葉県でやっていた雑貨屋の姉妹店を那覇市の浮島通りにつくって、一年半くらい行ったり来たりしているうちに、こちらにいる割合が増えてきました。震災の混乱を経験していたこともあり、すこし大げさですが、一旦空っぽになり、新しい自分の場所をつくろうとしていました。

最初は知り合いが居なかったので、ホテルやゲストハウスに泊まりながら物件探し。ひとりで内装をつくってお店をオープンして、南風原(はえばる)に住み始めました。

部屋を借りられないとか、貸してくれないとか、いろいろな壁があると聞いていましたが、そんなことはありませんでした。みなさん人がいいんです。“やったらいいさー”って。新しいことを始めるには、いい環境だったと思います。

移住してからは、変わったというよりも戻ったという感覚。昔と比べると、いまは子どもがいるし、状況は違っているけれど、お店を始めた頃か、もう少し前に自分が感じていた気持ちを思い出しました」。

「来た当初は、住む期間を2年だけと決めていたんです。パートナーが親元を離れることに抵抗を感じていたこともありました。が、それからずっと期間を延長して、いまに至っています。

北中城(きたなかぐすく)に引っ越してきてから、海が見える丘にある外人住宅を改装して軽食のお店を経営しています。自宅と兼用で、庭もあり、海はすぐそこ。ほかにも、民泊や観光ガイドと、いろいろな仕事をしています。

沖縄はフルーツがとてもおいしいでしょう。パパイヤ、マンゴー、パイナップル、グアバ、パッションフルーツなどなど。あれこれ考えているうちに、自然とスムージーを雑貨屋の裏で売り始めるようになりました。

うちのは“スムーチー”といって、もうちょっとアイスに近いもの。ムーチー(お餅)のようなもので、友人のたこ焼き屋と一緒に店を出したり、そのうちパンケーキをつくりはじめたりして、いつの間にか飲食店に転向していました」。

「移住する前は、千葉県柏市を中心に雑貨屋を経営していました。一時期は4店舗あり、そのほかにイベントのオーガナイズや野外フェスの運営にも携わっていました。たくさんの人を地元に呼びたくて、どうだ!という気持ちが強かった。

こちらでもイベントを手伝っていますが、いまはどちらかというとノウハウを生かして島の人たちと助け合うことのほうが大事。一人ひとりとの関係性が深くなってきているし、もっと地域と繋がれたらいいなと思っています」。

「沖縄にずっと居続けるかどうかは正直わかりません。ただ、もし地元に戻ることになったとしても、来れる理由は残しておきたいと思っています。なんでなのかなあ。いろいろと考えましたが、単純に好きになってしまったんです。

たとえば、子どもが神さまとまでは言わないけれど、自由でいさせるのが良いよねという寛容な考え方があります。みんなで面倒を見て育てている感じがある。昭和っぽいといえばそうなのだけれど、そういうところを見て、いいなーって思うんです。

それに、どういうわけかみんな自分で何かをつくりだすようになっていく。これまでに考えたことがなかったような、スムーチーやパンケーキをつくったり、お土産ブランドを立ち上げたり、庭で島バナナを育てたり。

同じようにして、アクセサリーをつくりはじめた人もいる。そういう人は多いんです。アイデアが浮かんだり、自分で何かを生み出したくなる何かがあるのだろうなと思います」。

那覇さんは、東京都で生まれ育ち、会社勤めをしながらなみのりをする日々を送っていた。2011年に結婚をしたことを機にうるま市へ移住。インストラクターとしてサーフィンを教えている。

「沖縄って、入り口が小さくて入りづらい赤ちょうちんの居酒屋が、40年以上続いている名店だったなんてことがよくあります。地元の人に聞けば教えてくれるんですが、観光で来ている人は見かけません。そういうところが海にも同じくあるんです。

車で走っていても、波のあるポイントって絶対に見えないんですけど、高台に登ると泣きそうになるくらい感動する眺めに出あえることがあります地図に乗ってないところもたくさんあって、ビーチとは見栄えがぜんぜん違うから、サーフィンに興味がなくても驚くんです」。

「地元サーファーの邪魔をしないように、移住してきた人同士で新たな場所を探していたこともあり、島の人も知らないような、素晴らしいポイントが見つかることがあります。

なかでも、高台から見下ろす海は最高。わたし自身、丘の上から日の出を見るのが日課です。夕陽が見える西側がいいという人も多いのですが、好みは分かれます。行きやすいところなら、宮城島がきれいです」。

「島出身のサーファーだった彼と知り合い、うるま市へ移住、結婚することに。とにかく挑戦してみようという思いでいっぱいでした。

沖縄はどんなところ?というのをいち早く知りたかったので、まず地方自治体と関わりがある、県民の多い会社に入社。経営の勉強を兼ねて3年ほど勤務しました。みんな自由に生きていて、ポジティブのもっと上という感じ。海外っぽいなあっていう大胆な考え方もよく耳にします。

退社してすぐに、今のパートナーと県外向けのサーフィンスクールを開店。これは東京にいた時からの夢でした。サーフィンで生活できる世の中をつくりたくて、いまは沖縄県内で唯一の女性インストラクターとして働いています。サーフィンの需要はアメリカ・ハワイのように大きくはないので、プロインストラクターとしてやっていけるよう、全力で取り組んでいます」。

「地元を離れてみて最初は寂しい気持ちもありましたが、価値観を共有しながらふたりが目指した場所で、家族みんなの幸せを育んでいければいいなと思っています。来る前は、東京で生活し続けると思っていたのですが、人生わからないものです」。

「東京と沖縄って、広さは同じくらいだけど、人の数が十倍違います。島では、同じ町の人のことはもちろん、隣町の人だって知っているし、沖縄全体で繋がっていることも珍しくありません。

昔と今で、自分のことを振り返ってみると、友だちの存在がかなり近くなった気がしています。家族のような感じ。みんなで頑張ろうよって協力することが多いから、新しいことに挑戦する気持ちや行動力が、東京にいた時よりも遥かに増していると感じています。

東京都江東区で生まれ育って、平日は都会で、休日は大自然のなかで、という生活を送っていました。一歳の頃から海や雪山に連れて行ってもらい、体を動かすのが大好きでした。週末に自然を求めるのは、非日常的な空間を求めているだけなのかなと思っていました。でも、わたしはこういう生活を求めていたのだと思います。

もともと体が弱くて、東京ではみんなに心配されていて、月に一度は病院に行っていたのに、こっちに来てからはパッタリ。不思議ですよね。人・自然・モノ・食・そのすべてを取り巻く環境のおかげだと思っています」。

真正面から「心」と向き合う場所

「なんくるないさ」は、もともと「まくとぅそーけーなんくるないさ」と繋げて使われていた言葉だそうだ。どうにかなるという楽観的な意味だけではなく、誠実に生きていればいつの日か良い日がやってくる、ということを示していると言われている。

沖縄にはのんびりしているイメージがある。しかし、移り住んできた3人の答えは情熱的と言ったほうがしっくりくる。それは、自然や人、自分自身と向き合える文化や環境があるからかもしれない。

本来の自分を見つけ、ありのままでいることの大切さを知り、新しい自分と出会う。そのために、もう一度沖縄へ足を運んでみたくなった。