「昆虫食」普及のヒントを東京・日本橋にみた。
ヒトはなぜ「昆虫食」を
忌避するのか?
わたしたちは「カリカリ」した料理が好きである。これは洋の東西を問わない。
こんがりと揚がったフライドポテトは世界中で好まれている。日本料理でもカリカリはたくさんある。天ぷら、鶏の唐揚げ、コロッケ、狐色に炙ったジャコを混ぜ込んだおにぎり、揚げ春巻き。
こう並べると、表面がカリカリで、中がトロリとしているものがとくに好まれているのではないか。
そう捉えると、スイーツがまさにカリカリトロトロの宝庫だ。クレームブリュレ、カヌレ、焼いたカラメルをのせたプリン、トリュフチョコレート。和菓子だと、かりんとう饅頭。
しかしカリカリトロトロはよくよく考えてみれば、生の食材にはほとんど存在しない食感である。
それなのになぜわたしたちは、カリカリトロトロをこれほどまでに偏愛するのだろうか? そう思った時にふとたどり着いた刺激的な食の本『美食のサピエンス史』(ジョン・アレン/羊土社)、この本にその答えが見事なほどに明快に書いてあった。
「それは昆虫だ。おそらく動物性食物のなかでもっともサクサクしており、キチンという多糖類でできた硬い外骨格に身を包んでいる」
引用:『美食のサピエンス史』/著:ジョン・アレン 発行:羊土社
哺乳類は内骨格なので、中心の骨が硬く周囲の肉や皮膚は柔らかい。だから生のままではサクサクにはならない。
しかし外骨格の昆虫は、外側に硬い殻があって、中にトロリとした身がつまっている。これはまさしく、食材の状態ですでにカリカリトロトロではないか!
ではなぜ世界中でわたしたちはカリカリトロトロを好むのに、昆虫を食べるのに拒否反応をしめす人が多いのだろうか?
実際には「昆虫食」はそれほど珍しいものではない。
アジアやアフリカ、オセアニアなど多くの土地で古来から昆虫は食べられてきた。日本でも蜂の子やイナゴは昔から食べられている。
おそらく昆虫食を忌避しているのは、欧米の食文化だろう。近代になってからアジアにも広まり、気がつけばわたしたちは「なんとなく」昆虫食に拒否感を抱くようになっているだけなのではないか。
欧米の人々が昆虫食を嫌う理由について『美食のサピエンス史』は、マーヴィン・ハリスという文化人類学者のこんな説明を紹介している。
「西洋人は昆虫を『きたならしく、吐き気をもよおす』ものとみなすがゆえに食べないのではない。真相は逆で、食べる習慣がないからこそ『きたならしく、吐き気をもよおす』ものに見えている」
引用:『美食のサピエンス史』/著:ジョン・アレン 発行:羊土社
つまりは単なる「慣れ」の問題ではないかということだ。
では先入観を思い切って取っ払って、虚心坦懐に昆虫食を口にしてみたらどうなのだろうか?
時の人となった
「地球少年・篠原」との再開
2020年に日本橋馬喰町に誕生した「ANTCICADA(アントシカダ)」という昆虫食専門レストランがある。
この店のオーナーは、1994年生まれの篠原祐太。じつはわたしは6年ほど前の春、彼とともに昆虫食を作って食べたことがある。その話は「TABI LABO」の記事になっている。
2015年のこのころは、昆虫食への日本社会の理解はほとんどなかった。当時、慶応大学の学生だった篠原も「ムシを食べる変な若者」というイロモノ扱いだった。
記事に紹介している昆虫料理は当時の「TABI LABO」のオフィスで作ったのだが、編集スタッフたちに当日の参加を呼びかけても「え......」と全員が腰を引けたようになり、ほとんど誰も来てくれなかった(笑)
しかし6年のあいだに、時代は一気に進んだ。
昆虫食はゲテモノではなく、SDGsの文脈で「持続ある食」の可能性として評価され、ポジティブに語られるようになった。そして篠原も、東京のど真ん中に昆虫食専門レストランを開くまでに成長していた。
昨年末、私は篠原のアントシカダに足を運んだ。
日本橋馬喰町のオフィス街にあるお店は、みごとな隠れ家風でおしゃれである。13席あるコの字型のカウンター席は、すべて予約で埋まっていた。コロナ禍にもかかわらず、かなり先まで予約はいっぱいだという。
集まってきた客層を見ると、女性の方が多い。男性は少なめで、しかも大半がひとり客だ。それに対して女性は友人同士で連れあってきてる風で、おまけに──下世話な話だが、美人系がやたらと多かった。
いまや昆虫食が、こういう層の女性たちに好まれる段階になっているのかと思うと、深々と温かい感慨がこみ上げてくる。
男性にひとり客が多いのは、一緒に昆虫食を食べてくれる友人が見つからなかったかもしれない。
私の観測範囲だと、男性はおおむね食に対して保守的だ。アジア料理に欠かせない香菜(パクチー)を「カメムシくさい」などと言って忌避するのは、たいてい男性である。それに対して女性は未知の食にも貪欲な人が多い。
いずれにしても、客層はとても良かった。
「嫌だ~ムシなんか食べられない」と騒ぐような迷惑な冷やかし客は皆無で、カウンターの全員がこの新しい食のトレンドに挑戦し、乗ろうと思ってやってきている。そういう姿勢がひしひしと感じられる。
アントシカダは週末限定のオープンで、金曜日の夜、土曜日の昼と夜はコースのみで提供される(日曜日はコオロギラーメンだけを提供)。
飲み物も、アルコールとノンアルコールでペアリングを選べるようになっている。最初のコオロギビールとコオロギチップスから、最後のコオロギラーメンまで、めちゃめちゃ質の高い料理だった。
コースにアルコールペアリングを合わせるとひとりちょうど1万円(税抜)になるが、東京のフレンチやイタリアンのレベルとくらべてもかなり割安だったと断言できる。
料理を出しながら、篠原をはじめとするスタッフたちが食材や調理についてさまざまに説明してくれる。これがとても興味深く、楽しい。
キャラメルコーティングされたセミの蛹が、木の葉の裏にぶらさがっている状態でサーブされてくる。篠原が言う。「このセミは、夏に近所の公園で捕りました。地産地消です」。
客席から笑いがこぼれる。
「徳島大学」の協力で現地で生産しているコオロギは、あらゆる料理に使われている。乾燥して粉砕し、ダシにする。米麹と塩をともに8ヵ月漬け込み、醤油にする。油に漬けて香味油を作る。
「徳島名産のスダチの規格外のものを餌にしたり、餌を変えると味がかなり変わるのがおもしろいんですよ」と篠原が説明する。
「餌の味の影響が大きいということ?」と聞くと、「哺乳類とくらべると消化器が単純なので、影響は大きいですね。魚粉を与えると香ばしくなるし、野菜の餌だとあっさりとフローラルな香りがします。料理にあわせて、餌を替えたコオロギを使うのです」
これはコオロギラーメンの後に出たデザートのタルトで実感した。
タルトには「蚕の糞」が振りかけてある。説明を聞かされて女性客から「えっ」と小さな声が上がるが、実際に口にしてみると、茶葉のような良い香りがするばかりで、イヤな臭みはまったくない。スタッフが「蚕がたべる桑の葉が未消化で出ているから、そういう香りなんです。昔から漢方に使われているのです」と説明してくれる。
今度は篠原が、カウンターの下から宝物を出すように小さなプラスチックの容器を出してくる。「ちょっと嗅いでみてください」と言われて顔を近づけると、なんとも上品な桜餅のような香りがする。
「これは桜につく毛虫の糞なんですよ。あのみんなが気持ち悪がる毛虫の糞が、こんなにいい香り!」。篠原は誇らしげな表情で言う。
なるほど! つまりこれは、昆虫の消化器を経由した桑の葉を食べているということなのだ。コオロギも肉そのものの重みはほとんどなく、コオロギが食べたスダチや魚粉、野菜餌がコオロギに形を変えて新しい食材になっているということなのかもしれない。
昆虫食の本質とは、じつは「野菜」なのではないか。
これはわたしにとっては大きな発見だった。
わたしたちは昆虫食を食べるとき、昆虫そのものよりも彼らが食べた餌を間接的に食べて楽しんでいるということなのである。だからこそ昆虫はダシや香味油、スープにすると、より実力を発揮することができるのだ。
これは昆虫食の大いなるメリットであるのと同時に、欠点ともいえるかもしれない。
なぜなら昆虫自体の「肉」の量が少なく、おなかをいっぱいにするためには相当な数の昆虫が必要になってしまうという問題が生じてくるからだ。実際、この夜のコースでもメインはイノシシのローストだった。そこにイナゴを麹と発酵させ、なんともフレッシュでフルーティな香りになったソースが敷かれていた。
そういう意味で、世界的なSDGsのテーマとして昆虫食を食肉の代用にしていけるかどうかはまだかなり未知数なのだろう。しかしそんな大きなテーマよりも先に、美食の最先端とも言えるようなこんな店が、コロナ禍の東京から出現してきたことについての感動は途方もなく大きかった。
今はまだ、ひっそりと小さな店で始まった潮流でしかない。
しかしこのアントシカダからスタートした新しい食は、間違いなく世界のトレンドとして広がっていくのではないだろうか。
そんな幸せな予感に震えるようにして、私は深夜に店を後にしたのだった。