知れば知るほど深さにハマる。画商が教える「アートの世界」
数年前、1982年にゴーギャンが描いた油絵『いつ結婚するの』に、3億ドル(当時のレートで約355億円)の高値がついて世間の注目を集めました。
興味がない人からすれば、理解不能なほどの金額です。なぜ趣味のものに対して莫大なお金をかけられるのか? そこには「本物の一枚」を手に入れた人だけにしか分からない「本物の価値」があるのです。
都内で画廊を経営している高橋芳郎さんの著書『「値段」で読み解く魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎)では、そんな絵画の魅力や歴史、自身の考えがまとめられています。
高橋さんの「絵画に対する愛」とは?
絵を通して
思いは次世代へ受け継がれる
人は、太古の昔から絵を描いてきました。人類最古の絵画だといわれる洞窟壁画は、4万年前の旧石器時代に描かれたものだそうです。
人類は洞窟壁画を描くことによって、他の霊長類とはまったく違う進化の道筋をたどることになりました。畏怖という感情は霊長類にもあるでしょう。しかし、それが安堵に変わったとき、人類だけが笑うことで感情を表現します。その喜びの延長線上に、歌ったり、踊ったり、何もない壁に絵を描いたりする遊びが発展して「文化」が生まれたのだと考えています。
人類は洞窟壁画を描くことによって、他の霊長類とまったく違う進化の道筋をたどることになりました。内発的な遊びとしての「絵を描く」という行為こそが、霊長類と人類とを分ける進化の大きな分岐点だとすると、絵を描くことは人間の本能的な営みだといえます。
そして、芸術こそ人類だけの最も高尚な大人の遊びだと考えています。遊びは人生に欠かせません。なぜならば、遊びは人生に活力と夢を与えてくれて、心と人生を豊かにしてくれるからです。
近代美術から
現代美術へ
19世紀後半、印象主義から始まったモダン・アートの冒険は、野獣主義、立体主義、超現実主義を経て、近代の終わりにたどり着きます。近代の終わりは立体主義と超現実主義などの作品を発表していた芸術家マルセル・デュシャンによってもたらされました。
デュシャンが1917年に制作した「泉」は、街で普通に売られている陶磁器製の男性用小便器を横向きにして、「R.MUTT」という署名と「1917」という制作年を書き加えただけのものでした。この作品は、絵画や彫刻のようにデュシャンが自分の手を動かして作ったものではありません。しかし、現代美術の観点から見ると「泉」は立派な作品として成立しています。なぜならば、そこには「批評性」があるからです。
そもそも「泉」は、見る人を挑発し、動揺させ、なぜこれが「泉」なのだろう、そもそもこれは美術作品なのだろうか…と考えさせることを目的としていました。「批評性」だけを目的とするならば、わざわざ自分の手を使って絵を描いたり、彫ったりする必要はないと示したのです。
では、何がこの作品を芸術たらしめるというのでしょうか? その問いに対するデュシャンの答えが、署名でした。たとえば、ピカソの署名があれば、絵葉書やメモ帳に描いたいたずら描きでも何十万もの価値を持ちます。それと同様に、「署名さえすれば、誰が作ったものであっても作品として成立する」とデュシャンは主張したのです。
こうしたデュシャンの既製作品は、現代美術の扉を開きました。以後の芸術は、画家の手仕事から作り出される作品そのものよりも、「どのような意図で伝えるのか」というコンセプトが、最も重要とされるようになったのです。
絵はお金で買えるが
お金では買えない絵もある
いささか謎めいたタイトルをつけてしまいましたが、よく考えれば当たり前のことです。
すべてが一点モノの美術品である絵画は、所有主がその作品を売りに出さなければ、決して買うことはできません。そして『モナ・リザ』や『アヴィニョンの娘たち』のように、ひとたび公的な美術館の所有物になってしまえば、半永久的に売りに出されることもなくなります。個人コレクターがそれらの作品を入手できる確率はグンと低くなるでしょう。
絵画とは、お金で売買される資産である以前に、全人類共通の文化遺産であり、何人たりとも、札束を積み上げて横面をひっぱたくようなやり方で自分のものにすることはできないのです。
絵は、株や債券とは異なり、お金だけではなく人々の生活を豊かにするものであるべきです。実際に私は、純粋に金融商品としての目的で絵を購入することはおすすめしていません。近年、確かに絵画は高騰しています。しかし、画商やオークション会社を通して絵を購入すれば当然手数料をとられますし、価値が落ちる場合だってあるのです。
絵を買うときには、ぜひ一生大切にできそうなものを選んでください。そして、自分が亡くなるときには、お子さんたちに絵を遺してあげましょう。その際、絵にまつわる思い出話も一緒に語ってあげるとなお良いです。
だって、絵はただのモノではなく、人生の一部なのだから。