ボクと彼にとって、結婚式は「どうしても外せないもの」だった。
2017年2月18日、僕はパートナーの男性と結婚式を挙げました。それからすでに半年が経過。その間に近隣では、台湾、さらに欧州でもいくつかの国々で婚姻制度の平等化が始まりました。いま、G7で婚姻制度の見直しがされていないのは、いよいよ日本だけ。
僕たちのような同性カップルは、紙一枚で婚姻を交わすことはできません。それゆえ家族や親しい友人たちだけでなく、公然と誓うことができる「人前式」を選びました。僕たちの結婚が、世の中にどんな意味や影響を与えるか。僕にできることは、こうして伝えることだと思ったのです。
これまでも、秘めやかに
同性婚は行われていた
10年ほど前、ずいぶん年上の友人に結婚式を挙げた人がいます。見せてもらった写真の舞台は軽井沢でした。実のところ、同性婚は「LGBT」や、「セクシャルマイノリティ」なんて言葉が登場するずっと前から、ここ日本でも秘めやかに行われていたのです。
彼からは、式を予約した後、会場スタッフに事細かく事情説明をして、二人の関係を理解してもらう必要があると聞かされていたので、当時と比べれば、随分と結婚式の挙げやすい世の中になったとは思います。写真のなかで微笑む二人の幸せそうな姿に、豊かさとか穏やかさを覚えました。いつか自分たちもこうして喜びあいたいと心に秘めたのを、今でも覚えています。
結婚式を挙げたい!
波風のない恋愛なんて、楽しそうでも幸せそうでもないように思えます。だから、普通の男女の恋愛と同じように“鮮度”は大事にしたくて。毎日がイベントのような時間を歩んできた僕たち二人にとって、何となくですが、数年付き合ったネクストステージは結婚…といったところだったんじゃないかと。
パートナーを“ストレート(男女間の恋愛)”の友人たちに紹介したのも、後にも先にも彼だけでした。手垢のついた表現ですが、彼に「ビビッ」ときてしまったんです。だからかある日、こんな言葉が私の口からこぼれていました。
「自分たちにも対応してくれるブライダルサロンがあるらしいから、見に行かない?」
強いて言えば、これがプロポーズだったのかもしれない。いくつかの候補から、自分たちのテーマカラーであるブルーとグリーン、それぞれが好きな配色が散りばめられた式場を選びました。
性の“抑止力”としての
婚姻制度
こうして式場が決まりサインをして、最初の打ち合わせの日まで三ヶ月になった頃から、二人の関係性とか周りとの繋がり方とか、あるいは自分やゲイの生き方に対して、これまで以上に考えるようになっていました。
婚姻には、理性と向き合うことも含まれていると思うのです。男性同士の場合、過去の自分も含めて性の乱れは著しくて…。きっと、僕たちにとってのセックスは、みなさんの“カラオケ感覚”なんだと思います。
婚姻関係を結ぶことが、こうした乱れのストッパーとして有効に思えてならないのです。とくに私たちの間でいまだに使われる「ハッテン場」で、性欲に負けてしまう人も少なからずいる。ストレート男女のようなシナリオがあることによって、防ぐことのできる性病は必ずあるはずなのです。
婚姻制度の平等化がされたとき、そこで初めてストレートのように、節度ある性思考になるような気がしています。誰かに見られているかもしれないという意識が芽生えることで、ウイルスや病気感染への抑止力ともなり、自身のモラルを見つめ直すきっかけにもなるのでは、と。
結婚とは
「制約と責任」
結婚式当日、僕たちはいくつかのメディアをお招きしました。その記者たちから出た質問に対し、反射的に口をついた言葉があります。
「僕たちにとって、結婚とは制約と責任です」
この言葉は、あらゆる媒体を通じて社会に出ることで、言葉以上に強みを増し、いっそう二人を強く結びつけるものとなりました。
結婚の報道がきっかけで、これまでカミングアウトしてこなかった取引先の方々からお祝いのメッセージをいただいたり、新宿2丁目の行きつけの店のママたちからも、手厳しい祝福の言葉をもらったり。
「おめでとうアンタ。なんで式に呼ばなかったのよ」
「もうよそのオトコと遊べないし、私がちゃんとアンタのこと見張ってるわよ!」
なんて、からかい半分に。祝福してくれている気持ちがとても伝わってきました。
いわゆるストレート夫婦で、夫が家庭に縛られたかのように丸く小さくなっていく理由がわかった気もします。でも僕にとっての結婚とは、縛られるものとか禊(みそぎ)とかではなく、やっぱり“制約と責任”。それも二人だけではなく、社会と結ぶことになる概念ではないかって思うのです。なぜなら自分の知っている方々が、自分たちをしっかり見守ってくれている安心感や幸せが、そこにあるから。