誰だって間違いを犯す。だから「許し」が必要なんだ
悪いことをしてしまったけど謝りづらい。
あの人がやったこと、悪気がないってわかっていても許せない。
そんな経験は誰にでもあるものではないでしょうか。
でも、やっぱり人間は誰でも間違いを犯すんだから、「許し」の習慣があったほうが良い。そんな内容の「The School of Life」の動画です。
法律で、すべての「罪」を
裁くことはできない
「贖罪」と言われると、普段は使わない言葉だし、少しギョッとしてしまうかもしれません。「贖罪」とは、自分の犯してしまった罪を改めること、キリスト教的なニュアンスでも使われることばです。
犯罪を犯してしまったときの罪の償い方といえば、罰金を払うことや、刑務所にいくことですが、それほど重くない間違いだったらどうでしょうか。
ミスをしてしまったとき、相手を不快にさせるようなことをしてしまったとき、不注意なことをしてしまったとき。
全ての「罪」を法律で裁くのは非現実的ですが、だからと言って、間違いを犯した人を、何の指摘もせずにそのままにしておくのも何だか違う気がしますよね。
宗教の考え方を借りてみる?
そこで宗教、とくにユダヤ教の考え方を借りながら「贖罪」について考えてみましょう。感じるのは簡単だけど、言葉にするのは難しく、そしてそれを償おうとすることはとても大切な、「痛み」。
ユダヤ教には、ユダヤ暦が始まるティシュレー月の10日に、ヨム・キプルという「贖罪の日」が設けられています。
この日は、すべての労働が禁じられ、自分の行動を振り返り、来るべき年に備えます。自分の犯した罪に向き合い、神に許しを請うのです。そして、神はその慈悲により、人々の罪を受け止め、許すことを認めています。
「神様」は完璧な存在だけど、人間である私たちは不完全な生き物。だから間違いも犯すし、誰だって謝らなければいけないことをしているはずです。
「贖罪の日」は、謝罪がされる人にとっても、する人にとってもメリットのある日です。
謝罪される側はしばしば心の置き方がわからなくなってしまうものですが、謝罪があれば自分の痛みに目を向けられていることを感じることができます。謝罪する側は、謝るまでは消えない、耐え難い罪悪感に向き合うことができます。
誰だって間違いを犯すから、
「許し」が必要なんだ
人間である以上、誰だって間違いを犯します。だからこそ、「みんな間違いを犯すんだ」と誰かに言ってもらえて、それを許してもらえるということは重要な意味を持つのです。
人間の罪を裁けるのは法律だけ。誰だって完璧で、その人が反省していたって罪は許してもらえない。そんな世界だったら、たくさんの人が一緒に暮らしてく社会で、よりよく関わりあっていくことはできないかもしれません。
日常的に懺悔をして、自分の罪を告白する、そして自分の罪も相手の罪も許す。そんな習慣だって良いのではないでしょうか。