四国最古の禅寺で、「完成は1000年後」の石庭が始まる瞬間を観た。
寺社仏閣の庭園が「始まる」瞬間に立ち会うなんて、想像もしていなかった。
京都・龍安寺の石庭は約520年前、苔寺として有名な西芳寺が今のような姿になったのは約150年前といわれている。庭園の意味はパンフレット読めばわかるけれど、庭が始まるとき、人々はどんなことを感じるのか?
私が城満寺へ行ったのは、そんな興味だった。
東京から6時間、徳島へ
2017年10月30日、8:55、徳島行きのANA281便に乗る。今回のプロジェクトを案内してくれる、フリーランスPRの本山さんも一緒。心強い。
徳島へ到着し、リムジンバスで市内へ移動したあと、一緒にお昼ごはんを食べながら、プロジェクトについていろいろ尋ねてみる。
城満寺は、徳島県海部群海陽町にある四国最古の禅寺だ。1291年に瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)によって開かれたが、1575年に焼失してしまう。復興したのは1952年。廃寺から377年もの時を超えて、念願の復興を遂げたのだ。
現在のご住職、田村航也さんは、2011年、31歳という若さで城満寺5代目住職に就任。アメリカ人、ドイツ人の修行僧を受け入れたり、若いクリエイターや地域の方々とともに活動したりするなど、さまざまなことにとりくんでいる方なのだそうだ。
そんな田村住職が石庭造りをお願いしたのが、華道家の萩原亮大さん。ファッションショーの演出家アシスタントとしてキャリアをスタートさせた後、花の世界に魅了されて華道家を目指した。過去にはバックパックに鋏を詰め込み、インド、イラン、モロッコ、ヨーロッパを旅した経験も。2016年に華道家として独立したあとは、アパレルブランド『UN3D.』や、レストラン『Cosme Kitchen Adaptation』表参道ヒルズ店のメインディスプレイを担当するなど、精力的に活動している。
今回は、すでに萩原さんが石や木で作った庭に花を活けていき、庭ができていく様子を見学できるそうだ。奉納献花という厳かな行事名がついているが、きっとライブ・パフォーマンスのようなイメージだろう。
すごいですね、とおよそライターとは思えない返答しかできないほど圧倒され、寺に対する保守的なイメージも覆された。でも、まだわからないこともある。2017年にできる庭は、私たちにどう映るんだろう?
12:43、JR徳島駅から牟岐線に乗り込む。1両だけの車両はトイレ付きだ。それもそのはず、ここから城満寺の最寄駅である阿波海南駅までは2時間12分。城満寺がある海陽町は徳島県最南端に位置しており、とても遠いのだ。
民家や建物の密度が低くなるにつれ、私が持っていたポケットWi-Fiもどんどん繋がらなくなった。強制的にデジタル・デトックスに突入したことを言い訳に、仕事を放棄して本山さんと話をする。仕事のこと、人生のこと、自分の性格、これまでのこと、これからのこと。自分のことであっても、時間軸をいろんな時点に設定しながら話を組みたてたり、言い表したりするのは難しい。そんなことを思う。
牟岐駅で一度乗り換え、14:55、阿波海南駅に到着。駅にちょうど来ていた個人タクシーに乗り込む。山と、田んぼと、畑と、川。信号もあまりないから、Google マップでは10分と出ていた道も、5分強で着いた。
そして、東京を出て6時間後...。
城満寺に到着
拓けていて広い境内。
ずっと続く石段の先には本堂が見え、周りには山々が連なっている。袈裟を着た修行僧らしき方々や、献花奉納を観にきた一般の拝観客が本堂のまわりにちらほらと見えた。
夕方の気配がする。山間の敷地だから、日が落ちるのと比例して気温が下がっていき、寒さを感じると同時に神聖な心持ちにもなる。
本堂の裏に回る。献花前の石庭とついにご対面。
奥の岩肌を覆い尽くす苔、曲線の模様を描く石、不規則に置かれた岩、組み立てられた流木。
萩原さんはもちろん、照明デザイナーとして仕立て屋のサーカスなどを手掛ける渡辺敬之さんやPA、カメラも準備に入っている。その合間を縫って、せっかく東京から取材に来てくれたので、と萩原さんが時間をとって話をしてくれた。
「今この庭にあるのは、僕が持ってきたものも少数ありますが、ほとんどが海陽町のものです。僕は、土地が喜ぶことをしたいんです」
土地が喜ぶこと、というのは、萩原さんの華道家としての信念だ。
「綺麗な花を使って、綺麗な生け花をやるのは誰でもできる。プロの華道家としてその先に行きたいと思ったとき、『その土地が喜ぶことをしよう』と考えるようになりました。今回の石庭プロジェクトでは、城満寺があるこの海陽町、そしてこの土地の神様への敬意を表しています」
その神様とは、城満寺から直線距離で北西に24kmほど行ったところにある、轟の滝の龍神様だ。
「僕も昨年、ご縁あって轟の滝の神事に神輿の担ぎ手として参加させていただきました。そこで、海部川の源流地点でもある轟の滝が、海陽町の美しい自然の源になっていることを理解しました。だから、この土地の水の神、轟の龍神様を表現しようと考えました。構図は地面を水面に見立てて、顔と体の真ん中あたりと尻尾が出ている感じです。でも、観る人には自分の好きなように受けとってもらえばと思います」
萩原さんは丁寧な説明のあとで、そう微笑む。
「最初に石を据えたのは、去年の昨日でした」
構想自体は1年半におよんだ。制作の間は、拠点である鎌倉から城満寺へ足繁く通った。そして、地元や修行僧の方々にも協力してもらいながら石庭造りに励んできた。
とはいえ、萩原さんは海陽町に親戚や知り合いがいるわけではないという。関東の人間が偶然ふらっと立ち寄るには、海陽町はあまりに遠い場所だが——。
「徳島に来たのは2年前。阿波踊りに参加するためでした。そこで、天然藍のオーガニック栽培から染色までを手がけている『海部藍』のプロダクトデザイナー、永原レキくんに会ったんです。蓋を開けば、僕の知り合いも海陽町によく来ていた。この町、何なんだろう?と思ったのが、最初に海陽町を訪れたきっかけです」
永原さんが城満寺総代を務めていたつながりで、萩原さんは住職である田村住職とも会うことに。何度も話すうちに、住職からある提案があった。
「町内の方がくださった石が、据えられるのを待っている、と。もしよければ、どれだけ時間がかかってもいいから石を生けてくれないか、とご住職から話をいただきました」
そうして1年半前、『轟』というタイトルで城満寺で作品を制作した。今回はそのアップデート版として、発表する庭を舞台装置に見立て、パフォーマンスで表現することを構想したのだという。
「僕は華道家になってまだ2年目の若輩者。ご住職と出会った当時はあまり仕事がなくて、それでも何かやらなきゃと、気になった土地に赴いてはいろんな人に会い、喋り、自分で花材を集めていました。そんな僕に石庭を任せてくれたご住職の決断は、どう考えてもやっぱりすごいと思います。感謝しかありません」
本番が近づき、本格的に準備に入る萩原さんとはいったんわかれることに。
その間に、御本尊の釈迦如来像を拝むために本堂のなかへ。
お寺で手を合わせるとき、いつもふと悩んでしまう。
初詣などで神社に行けば「今年1年健康で過ごせますように」などとお願いするわけだが、お寺もそれでいいのだろうか? 結局、何も願わずに下がることが多い。
ここにあるのは、「願い」なのだろうか。どちらかというと、「祈り」に近い感じに思える。「願い」はもっと鋭くて個人的だけれど、「祈り」は空気みたいに漂う、アンビエントなもの。なぜなら、すべてが移りかわり(=諸行無常)、何事も思いどおりにはならない(=一切皆苦)状況を生きていくには、「願い」は少し刹那的すぎる気がするし、いつかどこかに辿りつくと信じて生きていくことは、私たち人間にとって普遍的な感情のひとつだと思う。それが「祈り」であり、「祈り」がもつアンビエントさともつながるのではないか。
同日に行われていた茶室開きの儀式が終わるのをしばし待ち、外へ出る。竹細工の灯籠が示す石庭への道を通り、奉納献花の始まりを待つ。
奉納献花が始まる
石庭には、音楽を担当する YURAIのメンバーがそれぞれのポジションにつく。
YURAIは、淡路島を拠点に活動している音楽ユニットだ。えま(うた・胡弓)、慧奏(ピアノ・シンセサイザー・民族打楽器)、Taka(ギター・うた)、Tomo(パーカッション)の4人からなる。
奉納献花は、慧奏さんが奏でる水のせせらぎのようなピアノで始まった。そこに袴姿の萩原さんが登場し、深く礼をする。
萩原さんは、流木で組まれた龍の頭の前に立つ。修行僧が花材を持ってきて、それを1本1本調節しながら差し込む。淡々とそれを繰り返しながら、龍に命を吹き込んでいく。
石庭には、えまさんの歌声が響き始めた。
萩原さんは、「水を感じるえまさんの歌声に魅力を感じ、YURAIに音楽をオファーさせてもらった」と言っていた。確かに、独特のゆらぎは水面のようだし、清らかな歌声には浄化作用を感じる。
えまさんの声は、歌声というより楽器のように響く。歌詞の8割くらいは日本語で、「空」「風」といった単語もキャッチできるけれど、その言葉が持つ意味というよりは歌声の感触で、それが「空」であり「風」であることが伝わる感じだ。それが他のメンバーのオーガニックな演奏と相まって、シガー・ロスをオリエンタルにしたような曲調になっている。それは、さっき釈迦如来像の前でふと思った「祈り」の感覚と似ているような気がした。
音楽はアップテンポで土着的なリズムに変化し、えまさんの胡弓がリードして会場の熱を上げていく。
石庭には、舞踊を担当する富木えり花さんも現れる。
まるで舞台芸術のように展開していく奉納献花。そのなかで、萩原さんは高い集中力をもって淡々と花や植物を生けていく。
約50分の奉納献花は、まるでライブのセットリストのように緩急がつけられていた。それは、飽きさせないパフォーマンスとして成立させる以上に、すべては移りゆくものだという「諸行無常」の教えを彷彿させるものだった。一方で、淡々と花を生ける萩原さんには、そういった「諸行無常」のなかで、2500年以上の間、実直に修行にとりくんできた僧侶の姿を見たような気がした。そして、それらすべては、いつかどこかへたどり着けると信じる「祈り」のような音に包まれていた。奉納献花は、そういった壮大なものの縮図のようだった。
そして、『石華庭』と名付けられた石庭が完成。萩原さんをはじめ、YURAI、富木えり花さん、そしてこのプロジェクトを裏で支えたメンバーにも、惜しみない拍手が送られた。
献花後、萩原さんはマイクを持ち、集まった拝観客の前に立ち、挨拶を始める。
「この石庭のコンセプトは、『完成は1000年後』です」
石庭奥の、苔で覆われた岩壁の上方には、アコウの木が植えられている。
アコウの木は、たとえ岩や石であっても根を張り巡らせることができる強い木だ。室戸岬には樹齢1000年になるアコウの木があり、それを聞いた萩原さんは、徳島・青空造園に依頼して植樹してもらうことに決めた。
「僕は地球の行く末を危惧しています。『完成は1000年後』ですが、もしかしたら1000年後に地球は存在していないかもしれない、と。だからこの石庭にお越しくださった時ぐらいは『10年後、100年後、1000年先の地球ってどうなっているんだろう』と皆さんが考える、そのきっかけになればと思いました。それを作品や、こういう発表の場を通して表現できて嬉しく思っています」
ふと、電車に乗って、本山さんと話をしていたことを思い出す。自分のことですら、数年前どうだったか、数年後どうなっていたいかを話すのは難しいのに、1000年後。私には想像できるだろうか。
最後に、萩原さんにこの石庭を依頼した、田村住職が拝観客の前に立つ。
「みなさま、遅い時間にもかかわらずたくさんの方々においていただきまして、ありがとうございました。
私ら禅僧は、2500年前のインドにおられたお釈迦さんの行を慕って、あるいは、700年前にこの城満寺を開かれた瑩山禅師の行を慕って、それをやっているだけです。要するに何か。朝起きて、坐って、ご飯を食べて、また坐って、人が来たら楽しく話をし、夜が来たら寝る。それだけのこと。
しかし、先ほど萩原先生が『完成は1000年後』とおっしゃったように、私らも2500年、700年というスパンでものを見つめながら、質素な生活をしています。単純な生活ではありますけども、2500年という時の間に、仏教がインドから中国を経て、日本に、そしてこの海部の地に至ったということは、何かが伝わっておるんです。だからこそ、このような素晴らしいお庭を造っていただけましたし、素晴らしい方々に集まっていただけたと思っております。
今このパフォーマンスを見ていただいた、おひとりおひとりの心の中にも、必ず何かが伝わり、起こっているはずだと私は思っております。今の世の中では、人の能力を数字で測ったりしておりますけれど、1の反応があった、100の反応があった、そういうことではない。みなさんそれぞれのなかで起きた何かをぜひお持ち帰りいただいて、日々何かを実現していっていただきたいという思いです」
1000年後の未来に
翌朝の飛行機で東京へ帰らなければならなかったので、奉納献花が終わってほどなく、私はまたあの電車に乗り、2時間かけて徳島市内へ戻った。
これから何百年も先、自分が死んでからも続くものの起点を目の当たりにしたい。そんな興味で訪れた城満寺。
1000年後といわれると、やっぱり難しい。けれどそれは、1000年後と今をダイレクトにつないで考えるのとは少し違うかもしれないと思った。
哲学者のイヴァン・イリイチは、「人びとに『未来』などない。 あるのは『希望』だけだ」と言った。これについて『WIRED』編集長・若林恵さんは、未来に期待して計画することで、私たちは開発すべき「資源」や「材」になり、未来というものの奴隷になってしまう、というような説明をしていた。これは、遠い未来の話をするとき、特にそうだと私は思う。
1000年先の未来を考えたときですら、私たちの目の前にあるのは、今の生活だ。
私たちにできるのは、寝て、食べて、仕事したり勉強したりして、また寝る、ということを実直にやっていくことだけだ。その期間にはいろんな葛藤や虚しさもあって、そういうとき、いつかたどりつく場所を思い描いて、あてどないものに向かって祈ったりする。それでまた、朝が来て、日々を生きる。
そうやってひたむきにとりくまれる生活のひとつひとつが、この1000年という時間を構成する原子になるのではないか。だから、未来のことを思えば思うほど、そこにあるのは今の生活なのだ。
電車は徳島市内へ近づく。もう時刻は22:30をまわっている。Wi-fiの電波も復活したけれど、なんとなくずっと、何も見えない真っ暗な外の景色をずっと眺めていた。見えないものこそ一番近くにあるということが、私を少し勇気づけるようだった。