【脱東京依存】AOSHIMA BEACH PARKの仕掛け人「宮原秀雄」〜ボーダーレスなワークスタイル〜

いまや日本のビーチカルチャーのアイコン的存在であるAOSHIMA BEACH PARK、年一回の発行ながらその高いクオリティでコアなファンを獲得している雑誌『CANVAS』、アウトドアとインドアの垣根を取り払った『INDIGO LABEL』のムービーなどのクリエイティブ…。

これら全部に関わっているのが、宮原秀雄という人物だ。

彼がメディアに取りあげられることは滅多にない。著作もないし、SNSのフォロワーが特別多いわけでもない。

そもそも宮原さんは、数年前まで大手広告代理店である博報堂の会社員だった。それが2014年、会社を辞めて宮崎県へ。今は家族三人で青島近くに居を構えている。

移住、ダウンシフトした暮らし、デュアルライフなどといったワードには、それぞれメディアスターがいるけれど、誤解を恐れず言えば、宮原さんは特別な人じゃない。だからこそ、彼の考え方やライフスタイルは、僕らのヒントになるはずだ。 

宮原さんに取材を申し込むと「OK。宮崎に来てよ。AOSHIMA BEACH PARKで話そう」と返ってきた。遠い…でも「ここは僕のスタイルのひとつだよ」という言葉にひかれた。

宮崎県の青島は、まだ海外旅行が一般的ではなかった時代に新婚旅行先として人気のあった観光地だ。それがここ30年(!)は、海の家もなく、寂れていた。そんな場所に、宮原さんは宮崎市役所や観光協会と一緒に『AOSHIMA BEACH PARK』をオープンさせた。

ビーチパークと言ってもピンとこない人もいるかも。海の近くに芝生があって、駐車場とトイレが完備されている。文字通り公園のような場所だ。

青島のそれは、さらに洒落たコンテナショップが並び、雰囲気のいいベンチやロングテーブル、パラソルなどがレイアウトされている。訪れたのは平日だったけど、かなり人が集まっており、それぞれがビールを飲んだり、バーガーやピザを食べたり、思い思いに過ごしている。

「じつは僕が宮崎に引っ越してくる前から、自治体主導で青島を活性化させようという動きはあった。そんな時に知り合いを介して、市役所の方と出会って“秀さん、力を貸してくれませんか?”ってなった」

もともと宮原さんは、宮崎でオーベルジュのようなことをやろうとイメージしていた。しかし、自身がコアなサーファーであり、海のある暮らしを発信したいという思いから、プロジェクトに携わることを決めたそうだ。

「サーファーとして海外へ行くと、めちゃくちゃ居心地のいいビーチがたくさんあるんだ。オレンジカウンティ、バイロンベイ、あとカウアイ島もそう。

その魅力って決してビジュアルだけじゃないんだよ。海がサーファーだけのものじゃなくて、いろんな人が海を楽しんでいて、ライフスタイルに海が溶け込んでる。言うなれば、人が風景を作っているんだよね。だから居心地がいい。

そういう場所をちゃんと日本で、宮崎で、そしてオリジナルで、作りたかったんだ」

なるほど。実際にパークを見渡してみても、観光スポットという感じではなく、もっとこなれた雰囲気。寛いでいる人たちがちゃんと絵になっている。

宮原さんは、このパークを統括でプロデュースし、ディレクションをしてきた。

「僕の担当は、プランニングからネーミング、リーシング。空間のプロデュースはもちろん、去年はお店も出していたし、各メディアとのリレーション、広報・PRからWEBサイト・Facebookページ制作やタブロイド版リージョナル紙発行のプロデュースまで…とにかく全部だね(笑)。

でも一番大変だったのは、クライアントへのプレゼンテーションかな。自治体の人にこのイメージを伝えるのは難しかったなあ。海外のビーチパークを紹介したムービーを見てもらったりして、言葉じゃなくて、とにかく雰囲気を伝えるようにした。

幸運なことに、とても理解のある担当者の方々がいて、助けられたんだ」

自治体を相手にプレゼンし、自身が世界で体験してきたビーチカルチャーの発信地を作る。宮原さんの職業ってなんなのだろう?

「よく聞かれるよ(笑)。一番しっくりくるのは、コミュニケーションデザイナー。実際、僕がデザインしているのはコミュニケーションだから。でも、プロジェクト全体をプロデュースしたり、ブランドのディレクションを担当するケースもあるし…。

まあ、そういう肩書はどうでもいいんだよ。僕は自分がいいと思えるスタイルを提案するのが仕事で、そのために必要なことは全部やる」

宮原さんは、もともと広告代理店で営業を担当してきた人間だ。つまり、クリエイティブに特化したスペシャリストじゃない。だけど、なんでもできる。いわゆるジェネラリストタイプなのかもしれない。

「うん、そうだと思う。でも、これって、僕だけじゃなくて、いろんな職業の人が、どんどんそうなってきてるんじゃないかな。

今は肩書とか職業とか、そんな垣根を超えて、いろんなことができる時代だし、それをしないと生き残れない時代だと思うよ」

たしかにその通りだ。

例えば、デザインだけができるデザイナーよりも、webシステムやサービスについての知識やプレゼン能力を持っているデザイナーのほうが重宝されるのは、想像に難くない。きっとそういう流れは、どんな職種でも多かれ少なかれあるだろう。

話を聞いていくと、ジェネラリスト宮原秀雄は、会社を辞めてから生まれたわけではないようだ。

宮原さんは17年間、博報堂で営業として勤務したベテラン。広告代理店の営業というと、広告枠をクライアントに売る…そんなイメージがあるけれど、宮原さんは「売ってたっていうよりも、僕は作ってた」と回顧する。

「営業にありがちな請け負うっていう考え方はしなかった。ひとつの広告を社内外、クライアントも含めて、チームみんなで作るんだっていう思いで働いていた。

だって、広告を出したいクライアントって、その裏には商品を売りたい、会社のイメージを上げたいっていう思いがあるわけでしょう? だったら、その背景も含めて考えていかないと意味がない」

もちろん、軋轢もあった。

「例えば、クライアントから青色にしたいって要望がきたとする。青色に変えるのは簡単だ。

でも、本当にそれがいいのか? 他の色がいいんじゃないか?って、僕はワンクッションもツークッションも考える。で、違ってたら、違うと言う。当然、議論になる。しょっちゅう怒られてたよ(笑)。そりゃそうだよね。だって僕は本来アカウントの担当なのに、クリエティブに口を出すし、お金をいただいているクライアントにも異議を唱えるわけだから。

僕はよく領域侵犯とか越権行為って自分で言っているんだけど、それはとても大事なことだと思うんだ。

最初の肩書の話じゃないけど、自分のパートだけに収まるんじゃなくて、もっと有機的に縦横無尽に動くのが僕の仕事のやり方。当然、各担当の責任は理解しているし、その仕事に対するリスペクトは根底にあるよ。その上で、ちゃんと伝えるべきことは伝えるっていうのが、僕が思ういい仕事なんだ」

とはいえ、「あいつを出禁にしろ」とか「担当をはずれろ」と言われたこともあるそうだ。でも、最終的には、出禁になったり、担当をはずされたことはない。

「激しい議論にもなるし、そこから喧嘩みたいになることだってあった。だけど、出禁だって言われても、クライアントのしかるべき人が僕のことを認めてくれていたりして、結果的にそうならないわけ(笑)。

それはクライアントに関していえば、僕が本気で相手のブランドや商品を愛して、相手にとって必要なことをするべきだと伝えていたからだと思う。だからこそ、相手の嫌がることも言うわけだよね。そういったコミュニケーションこそ、僕の強みだと思う。

あと、自分の責任をしっかり果たすことにも意識的だった。規定演技なしで、自由演技ばかりやっていたら、信用されないよね? すべては、与えられた役割やターゲットの達成をした上での話。縦横無尽に動くためには、そういった責任をおろそかにしないこと。まあ、自由演技の方が好きだし、得意ではあったけどね(笑)

どんなに凄腕の営業マンだって、業界が変われば勝手が違う。上手くいかないこともある。でも、宮原さんは若い頃から立場や役職を超えたコミュニケーションをとってきた人間だ。

その経験値があるから、自治体の担当者から企業のトップ、クリエイター、さらには個人商店の方々といったさまざま人たちに、自分のイメージを伝えて、共感してもらい、一緒に仕事ができている。

「だからね、僕は博報堂の営業だった時代をものすごく感謝もしているし、誇りに思っているんだ。博報堂という企業だったからこそ、営業をやっていたからこそ、会えた人もいるし、大きなプロジェクトも経験できた」

脱サラした人の多くは、サラリーマン時代を否定的に捉えがちだ。けれど宮原さんは、むしろ「会社の仕事はおもしろかった」と言う。

「そもそも僕が広告代理店に入ったのは、スキルや経験が会社ではなく、自分にたまるだろうって学生時代に考えたから。そして、30歳になったら会社っていう組織を卒業して、独立しようとも最初から思っていた。

ところが、いざやってみると、30を越えてもどんどん仕事はおもしろくなるし、まだまだ自分としても成長が実感できたんだ。

だから、もしかしたら、僕は会社を辞めずにそのまま博報堂の社員として、ずっと働いていたかもしれない。そして、もしそうだったとしてもきっと幸せだろうし、不満があったわけじゃないんだよ」

転機が訪れたのは、39歳の時。父親が亡くなり、結婚して、娘も授かった。

「会社を辞めたのも、東京を離れたのも、きっかけはひとつじゃない。いろんなことが重なったんだよね。

まず3.11があって、その後に親父が死んだ。その二つの出来事がきっかけで、僕は強烈に自分の人生を考えることになった。親父は70歳で死んだんだけど、“俺の人生も70までとして、もう折り返しを過ぎてる”って実感した。人生が有限っていうのがわかったんだよね。そして、もっと貪欲に自分の理想を追い求めていいなって思ったんだ。これが会社を辞めた理由のひとつかな。

そして、そのすぐ後に僕と奥さんは新しい命を授かることになった。3.11の後。僕はサーファーだから、やっぱり自然には人一倍関心が高いし、子どもや家族と過ごすのに、このまま東京でいいんだろうかって考えた。その結果、僕ら家族は東京を離れようと決めたんだ」

つまり、奥さんが妊娠中というタイミングで17年間勤めた、しかも好きな会社を辞めて、東京を離れる決意をしたわけだ。

経済的なこととか不安はなかったんだろうか?

「そりゃあ、なかったわけじゃないよ。でも、さっきも話した通り、僕は、もともと博報堂の営業というよりも“宮原秀雄”として仕事してきたつもりだったし、むしろ会社や東京を離れることで、今までと違ったことができるんじゃないかって思いだった。

そして、宮原という個人フラッグが、もっと立ちやすくもなるんじゃないかとも考えたんだ。“東京の、博報堂の、営業の、宮原秀雄”よりも“宮原秀雄”のほうが幅広いことができるのでは?って。もちろん、扱う金額は、桁がいくつも変わっちゃうんだけどね(笑)」

そうして、選択したのが宮崎だった。宮原さんが優秀な仕事人であると同時に、サーファーであることを考えると納得がいく。

「最初は漠然と、南のほうで、海の近くがいいな〜ってぐらいだった。東京にいるころからサーフィンは僕の生活の一部になっていたから、自然な流れだよね。

で、具体的に候補を絞って、妻と一緒にいくつかの土地を視察をしに行った結果、15年以上サーフトリップで通っている宮崎かなって。

ここは、ただ波がいいってだけじゃなくて、天気もいい。食事も美味しい。そして、なによりも人がよかったんだよね。ここで知り合った人たちが決め手になった。それが宮崎に引っ越してきた理由だね」

それにしても、宮原さんは自分の説明をする際に、Iターンや移住という言葉を使わない。「宮崎に引っ越してきた」と表現する。自分をIターン組や移住者だとカテゴライズしていない。

「僕は今宮崎に骨を埋めるつもりでいるけど、もうちょっと俯瞰して人生をみた時、“旅するように暮らす”っていうのもある。実際、今も宮崎だけで仕事しているわけじゃないし、それは奥さんも同じ。プロジェクトによっては東京に呼ばれることもある。プライベートに目を向けてみると、娘の成長過程で何があるかはわからない。

だから、宮崎という場所が好きだけど、この先ずっと住んでいるかって言われると、それはわからないな〜。つまり宮崎にはこだわり続けるのは変わらないけど、“住む”ってことには執着していない。だから、移住とかIターンって言葉は出てこないんだろうね。

自分としては“脱東京依存”って言葉がしっくりくるかな。僕はもう、東京に固執したり、依存して生活することをやめたんだ」

脱東京依存の魅力とは?

「これはね、東京しか知らない人には、伝わりにくいんだけど…。僕は東京ってすごいって思っていて、深く知れば知るほど、圧倒的だとも思う。

だけどね、いざ東京を離れて、他のところで生活すると、あとはどこでも一緒かな?ってなるんだよ。例えば、僕はこの後の人生でオーストラリアに越すことができるかもしれない、って本気で思える。

そんなふうに、もっと自由にもっと身軽に、という感覚が手に入るんだよね」

東京で暮らしている人なら、この話に納得できるんじゃないかと思う。なにかと、東京に依存してしまっているという意識は多かれ少なかれあるはずだ。

脱東京依存した宮原さんは、今自身の生き方を「ボーダーレスなスタイル」と評している。

「思い返すと、僕がずっとやってきたことってボーダーラインを飛び越えるっていうか、そういうことだと思うんだ。

営業時代は、アカウント担当という枠や立場を超えて仕事をしてきたし、プライベートでも東京から国内外の海へしょっちゅうサーフトリップしてきた。そのなかで、ジャンルレスにいろんな人と出会ってきたことも大きいと思う。

そして、会社を辞めて、宮崎に来てからは、もっともっとボーダーレスになってる。

会社員だった頃は、一応日曜日の夜と月曜日の朝にスイッチを入れ替えていたんだよ、これでも(笑)。みんなそうだよね? 僕もそうだった。それが今では、ONとかOFFとかのスイッチングがイージーになって、もうスイッチなんかないんじゃないかって思ってる。

スイッチがないってことは、いつだってサーフィンを楽しめる。逆に、休日や夜中だって、電話やメールがあればすぐに仕事になる。よく誤解されるんだけど、ONOFFの垣根をなくすとか、時間や場所を選ばないっていうのは、そういう両面があるんだ。自由っていうのは、一緒に責任を伴うってことだよね」

そして、ボーダーレスなのは仕事だけじゃない。

「もう、東京と地方とか分ける時代じゃない。仕事の大小とか、クライアントが自治体なのか企業なのかとかも関係ない。そういうボーダーラインは全部とっぱらって、自分のスタイルを貫いていきたいんだ。

実際、僕のアウトプットをみて、博報堂時代では繋がらなかったような人やブランドやプロジェクトのお話が入ってきて…しかも、サイズや種類もとてもバラエティーに富んでるんだよね」

それは宮原秀雄だからできること? 

「そんなこと絶対ないよ(笑)。僕は17年間会社員だったからわかる。ボーダーレスな働き方っていうのは、むしろ会社員のほうが、チャレンジしやすいと思うんだ。

だって、ある意味お金は会社のものだし、責任だって会社だ。なげやりな話じゃないよ。名刺があればこそ会える人だっているはずだ。

“僕は営業だからここまでしかできません”なんて言ってたら、可能性が減っちゃうし、伸びしろもなくなる、出会える人も狭まってしまう。

だからこそ、領域侵犯、越権行為、僕はいいんじゃないかって思う。そうしていると、自分の可能性も、本当に広がってくる。バイブスの合う仕事仲間ってのが見えてくるんだ。会社とか業界とか業種とか関係なく、ね。仕事って、結局は人だから。

僕のいうボーダーレスなスタイルっていうのは、そういうことなんだ」

〜編集後記〜

インタビューのために宮崎に行った際、まずは食事でも、となった。僕はその場でもいろいろと宮原さんに話を聞こうと準備して、待ち合わせのレストランに向かったが、完全に肩透かしを食らった。

なんせテーブルには、たまたま遊びに来ていたサーファー仲間3名と宮原さんの奥さん、娘さんが勢揃い。話題も一向に僕が聞きたい宮原さんの話にはならない…。

でも、そのサーファー仲間3名はじつは飲食店のオーナーや世界中を旅しているカメラマンだったりして、おもしろい話がどんどん飛び出してくる。しかも、ただおもしろいだけじゃなく、その場で彼らの仕事と宮原さんの仕事がどんどんつながっていく。「今度、和歌山でさ…」「◯◯の写真なんだけど…」「ビーチパークの展示の件で…」などなど。かと思えば、宮原さんは突然、娘さんと一緒にレストランの外へ遊びに行ってしまったりもする。

今思うと宮原さんの言うボーダーレスなスタイルって“ああいう場”のことなのかもしれない。取材も、友だちも、仕事も、家族だって一緒くた。フラットに付き合うし、それぞれがつながっていくことで、新しい何かが生まれる。

ちなみに、この記事の写真はその場で紹介してもらったカメラマン、隈元公之さんから提供いただいたもの。正直、レストランでは「取材できないじゃん」と思ったけれど、そこでの出会いがつながって、ちゃんと仕事になったわけだ(笑)。

All Photo by 隈元公之

宮原秀雄/(株)キャンバス代表取締役
コミュニケーションデザイナー・コミュニティープロデューサー・ブランドディレクター・プロジェクトマネージャー。山口県下関市生まれ、愛知県育ち。1997年関西学院大学経済学部卒業後、(株)博報堂入社。2014年3月末に退職するまで17年間、アカウントプロデュース職として、大中小様々なクライアントの広告・事業展開を手がける。その後独立起業し、雑誌 『CANVAS』を発行。各種ブランドやクリエイティブのディレクション、新しいコミュニティーのプロデュースなどに携わる。2015年1月に東京を離れ、家族で宮崎へ移住。現在は宮崎のプロモーションに関わる各種プロジェクトも遂行中。43歳。

【宮原秀雄の仕事】

宮原さんが関わっているプロジェクトは『AOSHIMA BEACH PARK』を起点に多岐に渡る。ブランドディレクションから、映像プロデュースまで。
ジャンルは、まさにボーダーレスだ。

『AOSHIMA BEACH PARK』

2015年にスタートして今年で2年目。全国規模で話題となっているAOSHIMA BEACH PARKは期間限定(今年は4月末〜9月末)でオープン。コンテナショップでは、本格的なハンバーガーやピッツァ、セレクトショップまでが軒を連ねる。ビーチヨガやライフセーバーによるアクティビティー、ポップアップ屋台などのイベント、ライブフェスも開催されており、地元や県内のみならず、県外や海外からも熱視線を集める。

文中にある通り、宮原さんはプロデュースからディレクションまで、幅広く担当。自身の発信するスタイルの起点でもあり、そのため動画ではタイトルが「BEACH PARK」ではなく、「BEACH STYLE」となっている点にも注目。

公式HP

『CANVAS』

「Draw Your Life.」を掲げ、“今の気分”と“本質的な豊かさ”を追求するライフスタル誌。年一回の発行ながら、2013年創刊以来カルチャーに紐付いたファッション性の高い内容で、多くの女性の支持を集めている。

編集長の宮原友紀さんは、宮原さんの奥さん。宮崎で暮らし、子育てをしながら、誌面作りを行っており、宮原さんは発行人兼任アカウントマネージャーを担当。
この10月31日には待望の第4号が発売。テーマは「Life is a Journey.」。宮原夫婦の生き方にも通じるテーマだ。

公式HP

『INDIGO LABEL』 Movie
BORDERLESS
(Produce,Planning,Direction and Coordinate by Hideo Miyahara)

アウトドアブランドのColemanとMonroが手がける2016年デビューのニューレーベル。既存のアウトドア/インドアにとらわれない、ボーダーレスなスタイルは、宮原さん自身のスタイルと共鳴する部分も。

このブランドとの出会いは、AOSHIMA BEACH PARKでSUPヨガのイベントを行っている田中律子さんの紹介によるものだとか。自身のプロデュースした場で、新しい出会いがつながっていく、これもまた宮原さんらしいエピソード。

ちなみに、ムービーの舞台となっているのは宮崎。国内ロケとは思えない、開放感と空気感のある仕上がり。

公式HP

『Pilgrim Surf+Supply』 MOVIE
(Produce,Planning and Coordinate by Hideo Miyahara)

 『ピルグリム サーフ+サプライ』は、“自然と都会のデュアルライフ” がコンセプト。サーフィンを中心としたアウトドアアクティビティのあるライフスタイルを、アメリカ東海岸のカルチャーというフィルターに通して提案するショップだ。

同ブランドのこのムービーのカメラは、宮原さんがどうしても一緒に仕事をしたかったという『シネマキャラバン』などの活動でも注目される写真家、志津野雷氏。クライアントに猛烈プッシュしたことから実現したらしい。

公式HP

Miyuu 『Southern Waves』PV
(Produce,Planning,Direction and Coordinate by Hideo Miyahara)

エイベックスから2016年にデビューしたシンガーソングライターMiyuu。デビュー曲のPVは壮大な海・夕日・強い意志・夢、という世界観をイメージしたもの。ロケはAOSHIMA BEACH PARKを中心に、すべて宮崎で行われている。

宮原さんは博報堂時代にエイベックスを担当しており、その縁でPVのプロデュースをすることに。

『vancamp-miyazaki』MOVIE
(Produce,Planning,Direction and Coordinate by Hideo Miyahara)

 宮崎の持つポテンシャルを、他ならぬ宮崎市にプレゼンテーションするために制作されたムービー。
宮原さんが発起人となり、クリエイターからアパレルブランド、さらに、有名レストラン、食材を提供してくれる農家までが有志として集った(動画最後のスペシャルサンクスの豪華なこと!)。
当初の目的こそ自治体へのプレゼンだったが、そのクオリティから海外の人気メディア「vanlife」に取りあげられ、思わぬところで注目を集めることに。

TABI LABO この世界は、もっと広いはずだ。